「靖国神社廃止の議」は左翼の餌食
■アメリカは、警察国家の看板を下ろせ
ブッシュ大統領はいいかげんにしろよ。ネオコンのチェイニー副大統領(個人的に石油利権あり)以下に踊らされてイラク開戦に突っ走り、イスラム圏が文字通り弱肉強食の部族統治型であることを無視し、民主主義の経験もない国に理念を押しつけた結果、占領政策は失敗しました。小泉前首相に責任?あるわけない。アメリカが孤立しないようにブッシュ大統領に直接「国連重視」を説得していたのが小泉前首相。建前上、国連の対イラク非難決議をもって支持しました。
大量破壊兵器を開戦理由にすることに対し、私はそれが確かに存在すると仮定しても「下手くそ!」と当時思っていました。大義を作るなら「独裁者の圧政下で行われている虐殺を看過することは出来ない」という人道問題でいくべきと思いました。そうでなければ国際社会を説得できない。
さて、北朝鮮。人道問題のみならず大量破壊兵器の極めつけ、核保有国と明言している国に対して、基地を叩く意志もないとはアメリカの警察国家としての体面はどうなるんでしょうかね~。利権がないというなら、作ってでも叩けよ!
案の定、六者協議前段階の米朝協議は決裂。核保有国という前提で六者協議に臨む北朝鮮に「核放棄しろ」という要求が通じると思う?「核保有させない」のが原則だったのなら、何の手も打たずに核実験をさせてしまった責任を米国は取れっていうんだ。
横田早紀江さんと面会して、人権問題に厳しい米国をアピールしたところで、口先だけなら同情は要らん!これ以上まともな戦略も描けずに北朝鮮を放置しておくなら、即刻六者協議を解散しろ。
あーきょうはなんか腹立つなぁ。
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■石橋湛山の思想
○右翼を一言で言い表すとしたら「民族自決主義」あるいは「天皇(神道)を中心とした民族主義」
○左翼のそれは「共産主義」あるいは「最後の拠り所は中国共産党独裁政権」
右と左の間にインスタント保守だのお花畑サヨクだのリベラル、ドグマティック~リアリストまで、複雑に重層的に個人の考え方に影響を及ぼしています。ひと一人を○○派だとラベル貼りなどできっこありません。
さきの大戦で、勝者が日本人の精神性まで踏みにじったことに対して、民族自決の右翼が「反米」となるのはある意味当然です。ただし政治的に現在の日米関係にまで波及させようとする小林よしのり氏などに疑義を唱えているのであって、私としては、大東亜戦争には大義があったと思うし、いわゆるA級・B級とされた戦犯の人達の名誉回復は、日本人自身の手によって行われるべきと思います。法律上の名誉回復だけではなく、彼らの求めた人道的なアジア諸国解放の観点から。その点については小林氏には頑張ってほしいです。
大東亜戦争は「無謀」という言葉がふさわしく、決して美化できるような戦いではなかったが、かといって「汚辱」といった言葉で日本人自らが貶めることも間違っているというのが私のスタンスです。
では、このように主張する人はどんな思想を持っているのでしょうか。
「理想は小さな国づくり」「国は野心を持ってはいけません」
NHK山梨ニュースを時間つなぎに見ていたら、石橋湛山の資料展示会が甲府で開かれているとのこと。山梨の市民団体主催だから「うさんくさいわね~」と詳細を聞いていたら於:男女共同参画推進センターだって。男女共同参画予算で建てられた箱物は暇で赤字だから格安料金で利用したのかしら?と好意的に解釈しようとしたんだけれど、主催が「やまなし平和資料センター準備会」と聞いた時点で、もうだめ。自民党の首相まで務めたリベラリスト・石橋湛山を左翼がいつもの手で利用しているだけです。
■石橋湛山の思想や経歴はWikipediaでご覧頂くとして、有名なのは「靖国神社廃止の議」でしょう。
<全文>
■参考資料:石橋湛山「靖国神社廃止の議」(東洋経済新報1945年10月13日号)
甚だ申し難い事である。時勢に対し余りに神経過敏なりとも、或は忘恩とも不義とも受取られるかも知れぬ。併し記者は深く諸般の事情を考え敢て此の提議を行うことを決意した。謹んで靖国神杜を廃止し奉れと云うそれである。
靖国神社は、言うまでもなく明治維新以来軍国の事に従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、其の祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽させ賜う程、我が国に取っては大切な神社であった。併し今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神杜の祭典も、果して将来これまでの如く儀礼を尽して営み得るや否や、疑わざるを得ざるに至った。殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英雄として崇敬し、其の武功を讃える事は我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や。のみならず大東亜戦争の戦没者中には、未だ靖国神杜に祭られざる者が多数にある。之れを今後従来の如くに一々調査して鄭重に祭るには、二年或は三年は日子を要し、年何回かの盛んな祭典を行わねばなるまいが、果してそれは可能であろうか。啻に有形的のみでなく、亦精神的武装解除をなすべしと要求する連合国が、何と之れを見るであろうか。万一にも連合国から干渉を受け、祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら、卸て戦没者に屈辱を与え、国家の蒙る不面目と不利益とは莫大であろう。
又右の如き国際的考慮は別にしても、靖国神杜は存続すべきものなりや否や。前述の如く、靖国神杜の主なる祭神は明治維新以来の戦没者にて、殊に其の大多数は日清、日露両戦役及び今回の大東亜戦争の従軍者である。然るに今、其の大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争として、国家を殆ど亡国の危機に導き、日清、日露両戦役の戦果も亦全く一物も残さず滅失したのである。遺憾ながら其等の戦争に身命を捧げた人々に対しても、之れを祭って最早「靖国」とは称し難きに至った。とすれば、今後此の神社が存続する場合、後代の我が国民は如何なる感想を抱いて、其の前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨との記念として永く陰惨の跡を留むるのではないか。若しそうとすれば、之れは我が国家の将来の為めに計りて、断じて歓迎すべき事でない。
言うまでもなく我が国民は、今回の戦争が何うして斯かる悲惨の結果をもたらせるかを飽まで深く掘り下げて検討し、其の経験を生かさなければならない。併しそれには何時までも怨みを此の戦争に抱くが如き心懸けでは駄目だ。そんな狭い考えでは、恐らく此の戦争に敗けた真因をも明かにするを得ず、更生日本を建設することはむずかしい。我々は茲で全く心を新にし、真に無武装の平和日本を実現すると共に、引いては其の功徳を世界に及ぼすの大悲願を立てるを要する。それには此の際国民に永く怨みを残すが如き記念物は仮令如何に大切のものと錐も、之れを一掃し去ることが必要であろう。記者は戦没者の遺族の心情を察し、或は戦没者自身の立場に於て考えても、斯かる怨みを蔵する神として祭られることは決して望む所でないと判断する。
以上に関連して、茲に一言付加して置きたいのは、既に国家が戦没者をさえも之れを祭らず、或は祭り得ない場合に於て、生者が勿論安閑として過し得るわけはないと云うことである。首相宮殿下の説かれた如く、此の戦争は国民全体の責任である。併し亦世に既に論議の存する如く、国民等しく罪ありとするも、其の中には自ずから軽重の差が無ければならぬ。少なくも満州事変以来事官民の指導的責任の住地に居った者は、其の内心は何うあったにしても重罪人たることを免れない。然るに其等の者が、依然政府の重要の住地を占め或は官民中に指導者顔して平然たる如き事は、仮令連合国の干渉なきも、許し難い。靖国神社の廃止は決して単に神社の廃止に終るべきことではない。
この主張が、日中友好協会にかかるとこのような解釈になります。
昨春発刊された高橋哲也氏の労作『靖国問題』(ちくま新書)は、“あとがき”で1945年10月13日の『東洋経済新報』に発表された石橋湛山の「靖国神社廃止の儀 難きを忍んで敢て提言す」という“社論”を採り上げている。紙幅の都合で詳しくは紹介できないが、その前年学徒動員で愛息を失った遺族の一人として、石橋は靖国神社の成り立ちを省みつつ、敗戦に直面した今、「大東亜戦争」の戦没将兵を英霊として顕彰することは国際的立場から困難になったとし、「大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争」であり、かつ国家を滅亡の危機に導いたわけで、そのような戦争の戦死者を祀ってこの神社が存続するならば、「屈辱と怨念の記念」となるだけだ。むしろ「我が国民は、今回の戦争が何うして斯かる悲惨な結果をもたらせるかを飽まで深く掘り下げて検討し、其の経験を生か」し、「真に無武装の平和日本を実現すると共に、ひいては其の功徳を世界に及ぼす大悲願を立てること」だと説いている。
戦前保守リベラルの立場から軍国主義批判の言論活動を展開し、戦後まっ先に靖国神社の「廃止」を提言、しかもGHQが非武装中立の憲法草案を示す遥か以前にこれを書いた石橋氏は、その後自民党総裁から首相に就任する。時代も状況も変わったとはいえ、このような先達が自民党に存在した歴史を、とくにポスト小泉を担う人たちには銘記してほしい。
敗戦直後に「万一にも連合国から干渉を受け、祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら、卸て戦没者に屈辱を与え、国家の蒙る不面目と不利益とは莫大であろう。」と石橋は憂え、「我が国に取っては大切な神社であった。」ことを日中友好協会はあえて無視します。
そして日中友好協会の中の人は「「大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争」であり、かつ国家を滅亡の危機に導いたわけで、そのような戦争の戦死者を祀ってこの神社が存続するならば、「屈辱と怨念の記念」となるだけだ。」と喜んでさきの戦争を軍国主義に結びつけていますが、よく読めば、石橋は「其の大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争として、国家を殆ど亡国の危機に導き、日清、日露両戦役の戦果も亦全く一物も残さず滅失したのである。」と嘆いていることがわかります。本来の靖国神社として存続できないのではないかと危惧し、嘆いている心情だったのだと思います。
敗戦によってGHQから与えられる屈辱を味わう当事者としてみれば、まさしく敗戦を招いた大東亜戦争は汚辱の戦争と言いたくもなるでしょう。石橋湛山が日ソ協会会長であったり日米安保にも反対した社会党寄りのリベラリストであったとしても、国を愛する心は文面に感じられるのですが・・・。
石橋は徹底した個人主義者・自由主義者で、「民族主義」に拒否感を持ち、小さい国づくりを理想としたのでしょうね。
以下のサイトも石橋発言を引用して、靖国参拝を批判しています。
だから石橋はこう言い切る。「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない」。石橋が戦後、靖国神社の廃止をいちはやく主張できたのも、徹底した個人主義の思想が背後にあったからだろう。
(略)
石橋は自民党総裁と首相に就任したとき、「五つの誓い」を発表した。そのなかに「世界平和の確立」がある。石橋は後に発表した「日本防衛論」のなかでこう述べる。「わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考えをもった政治家に政治を託するわけにはいかない」と。
なるほどね~。石橋湛山という人は、共産主義者にもなれない、単なるウマシカさんに思えてきた。個人主義者なんて、今時の保守論客が最も軽蔑する品格なき人種じゃない。
思いの外に以上の話が長くなって、もう紙数が尽きて来た。後はずっと端折らなければならない。 然らば経済とは真当は何を指すのかと云うと、私は斯う解釈する。経済とは人間が其の無限の欲望を 最大限に満足し得る如く与えられたる有限の手段を配分する事であると。人間の欲望が無限であること、 然るに之を満足する手段(其の最も重要なるものは我々の労力だ)が有限であることは、証明を要せぬ 基本的な事実だ。従って人間は此の有限の手段を以て、無限の欲望を最も多く満足し得るように、 其の有限の手段を諸欲望に向かって適切に配分することが必要だ。経済とは、此の適切の配分を計慮し、 之に従って行動することを云う行為と云うものも、其の全体を経済と云うことは出来ないが、併し其の 行為が前期の計慮に支配せられている限りに於て経済である。
無限の欲望と有限の労働力をどう調整するかといえば、諸欲望に向かって適切に配分するんだって。その適切量をはかる行為も経済に含まれると。社会主義者だったら「平等に配分」と書くでしょうに。国の成長力も技術革新も世界市場という概念もそこにはありません。「投資」という経済活動など知らないんでしょうね。こんな感覚で首相まで務めたというから恐れ入ります。もしマル経でも真剣に学んでいるなら、もうちょっとましなことを書くと思いますけど。
このような個人主義者を持ち上げるリベラルな方達は、保守を批判するならもっと優秀な人を選んだほうがよいかと存じます。
日教組組織率98%を誇る山梨よりお届けします。(笑)
-日本とアジアの架け橋になった人々-
主 催 山梨県生涯学習推進センター〔(財)やまなし文化学習協会〕
後 援 山梨県教育委員会、NHK甲府放送局、山梨日日新聞社・山梨放送、テレビ山梨
日本が東アジアを侵略した時代、中国や朝鮮半島へ渡って友愛の精神で活動したり、国内にあって侵略に異議を唱え続けたりした山梨県人がいました!! 第二次大戦終結60周年の今年、これらの先人の業績に触れ、信条に耳を傾けてみましょう。 私たちの進むべき道筋が見えてきます。第5回 「アジアと日本・山梨の明日を見つめる」10月22日(土)午後1:00~4:00県立男女共同参画推進センター
○基調スピーチ 「石橋湛山の思想にみるアジアとの協同」 江宮隆之氏(作家)
○シンポジウム 「日本・山梨からアジアへ、アジアから日本・山梨へ」
コーディネーター 高室陽二郎氏(前山梨放送社長)
シンポジスト 金 根熙 氏(株式会社韓国広場代表取締役)
坂本 宏 氏(山梨産業文化研究所代表)
江宮隆之 氏
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<追記>靖国問題まとめサイト
ぼやきくっくりさん「●首相の靖国参拝反対派への反論(上)(中)(下)【暫定版】」
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