カテゴリー「思想・哲学・宗教」の2件の記事

2010年7月 4日 (日)

保守主義とは何か

真の保守」とは何か。
新潮45(5月号)で岡崎久彦氏はこう述べている。エキスはこの一文に集約されるだろう。

国家、民族と家庭を守るのが保守主義であるという定義には反対は無いであろう。

反対がないからこそ産経新聞は新閣僚が登壇・降壇する時に「国旗に礼をしたか」を一人一人チェックしたりする。国旗国歌法に反対した菅直人は左翼の親玉ということになる。

国を思う心の篤い岡崎氏は、真の保守を考える上で、自民党政権構想会議の第一回会議で示された冒頭部分に疑問を呈している。「近代社会では自由競争(創意工夫と自己責任)を重視する自由主義か、統制・計画を重視する共産・社会主義かに大別される」という構想メモを引き合いに、

真正保守主義に立脚した民主主義が、経済上の自由主義と結びつくと定義して良いかどうか、もう一つ自信が持てないのである。

その後、修正された自民党の新綱領は「我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない」となった。岡崎氏は、「これなら違和感を抱かせない」と納得している。

この曖昧さが現状の「真正保守」を標榜する保守層の感覚ではないか。
「保守」と「自由主義」があたかも対立理念としてすり込まれてしまっているのである。市場の原理は「統制すべきもの」、「人を堕落に導く悪しきもの」という固定観念がある。だからこそ日本は自由主義の国でありながら、戦前の統制経済を引きずってきたし、日本型社会主義への回帰が止まらない。

日本の古き良きものとは、「自由」ではなく、「お上がなんとかしてくれる社会主義」がイメージの中に残っている。民主党を政権与党に選んだ日本人にとって、命をかけて守るべきものは自由ではなく、いかに分配にありつくかになってしまった。麻生さんの弁ではないが、さもしさしか感じない。保守層にしても「経済政策」とは相も変わらず財政出動頼みである。「官から民へ」が指し示す「小さな政府」を打ち出しているのは、みんなの党のみになっている。

岡崎氏はエドマンド・バークの保守主義の研究を引用し、保守主義の本質を問うている。

バークによれば、保守主義とは、祖先から受け継いだ伝統的な知恵を尊重し、それを子孫に伝えていく哲学である。その裏には、人間は多くの間違いを犯す不完全な存在であり、人間の知力などというものは矮小で欠陥だらけのものであるとして、人間の浅知恵の過信を根源的に危険視する謙虚な人間観がある。

つまりキッシンジャーの補足によると「理論に基づく保守主義ではなく、歴史に基づく」と定義している。早い話が“先人の知恵に学ぶ”のが保守のあるべき姿ということだろう。先人が培ってきたものに対して謙虚であれ、と。

では問うてみたい。
日本人はどの時期の歴史に学ぶのか。戦後の佐藤栄作に連なる福田派が保守本流なのか、大平正芳氏が「保守本流」と自称したようにハト派保守が本流なのか。そんな保守論争は矮小にすぎる。

世に名君として知られる徳川吉宗は、実は増税と倹約によって町民の活性を奪う治世(経済政策)を行った。一方で上方では元禄文化が花開いたことを見ると、民の活力を生かす治世にこそ学ぶ点がある。けちけち財政至上主義の吉宗に対抗した尾張名古屋の徳川宗春は積極財政策を採って遊興にも大いに散財した。どちらの地域が発展したかは言うまでもない。河村名古屋市長は減税によって徳川宗春の志を継ぐと言っていた。自民・民主そしてマスコミと結託した「消費税増税へ右へならえ」の風潮にカツを入れてもらいたい。

政府は国民の生命と財産を守ることに本分がある。これこそが武士道の神髄ではなかろうか。武士道精神を経済政策にまで援用したいのが「真正保守」だが、民は民の本分があり、官が民の自由な競争を奪うことこそが左翼なのであるということを言っておきたい。官の統制が必要なのは、国家の重大な危機の時だけである。

国家観とは、自分を育んでくれる国を尊び、地域の発展に思いをいたし、家庭を守る姿そのものである。国を守ることは家庭を守ることと同じ。社会を恨むことは国家を恨むことと同じ。

国家とは他国の存在があって相対的に価値を持つ。もし世界が日本だけだったら国家を意識する必要もない。国という概念も生まれないだろう。ゆえに国家を日頃意識しないでいられるのは、他国のストレスを感じないで過ごせるということだから、とても幸せなこと。

政治に国家観を求める意味は、「国を守る」使命を意識させることである。それは権力側に憲法を遵守させる意味に等しい。国を守る戦略と知恵を持つ政府、そして民の自由を阻害することなく必要以上に搾取しない政府。私はこのあり方が本当の保守なのだと思う。

◇日々是語草◇
自民党はどっちつかずのお寒い保守。菅総理は・・話にならない

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2009年11月13日 (金)

構造主義のレヴィ・ストロース氏が亡くなった。小沢氏の「排他的」発言

ついったーは我慢我慢。いったん入ると止まらなくなっちゃう。冷静に考えれば、タイムライン上に流れる私の呟きなんて、目に止めてくれるのはせいぜい5~6人じゃない?特に私の場合、皆さんと時間帯が違うし(;^_^A…夜、まとめて眠れないのよね。3~4時間でぱっちり目が覚めてしまう・・。トシのせいか。

一方、ブログの読者は、ありがたいことに更新頻度が落ちても固定している。どちらを優先すべきかは考えるまでもない。ネットで書いて読んで、たまにはコミュニケーションもして、オフラインで本や雑誌も読み散らかしたい。いくら時間があっても足りないよ(T_T) ウゥ 仕事と家事は先送り常習だけど\ポコ☆

週刊誌ザッピング中、目に止まったのは「構造主義」の旗手、レヴィ・ストロース氏(仏)の訃報。フランスには優れた思想家が多いなぁ。

(週刊新潮)中央大学名誉教授の本田元名誉教授の説明によると、構造主義の核心は

「人間が主体的に行動して歴史を作っていると考える実存主義へのアンチテーゼでした。自分では主体的に判断や行動をしていると信じているが、社会の深層には当事者も自覚していない、共通する不変で無意識の構造があるととらえたのです。(略)」

経済構造の違いによる先進国と後進国の格差は、構造問題ではなく、(民族的な?)別の思考であり、優劣はつけられないというのがストロース氏の考え方であった。
政治的な構造改革は最初は左翼的なスローガンとして出てきたが、社会の構造を変革するのが「構造改革」とすれば、人間の構造は変えがたいとして、人間中心の傲慢を戒めたのがストロース氏だったのである。

一方、キリスト教を「排他的」と断じた小沢幹事長だが、それこそが排他的思考の発露であって、構造主義に悖るものである。優劣の問題ではない。

小沢氏は、「全日本仏教会」会長の松長有慶・高野山真言宗管長と会談した際、「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」と述べたという。(読売新聞

一個人としてどう思おうが自由だが、小沢氏の場合は、票欲しさに仏教界に媚びるいやらしさしか感じない。民主党では財務大臣なども仏教系の新興宗教の集会にお出ましになったとか。大小新興諸々の仏教系の宗教団体は、自民と民主の大事なお得意様。統一協会は民主党議員にも基盤を広げているようだけれど。

小沢氏は、日本にはクリスチャンが少ないという計算の上で、民主党幹事長としての確信的な発言なのである。

それにしても「度量の大きい宗教だ」という言葉のセンスに苦笑した。北朝鮮の「我々は度量の大きさを示すであろう」というアナウンサーの声がだぶってしまった。「欧米・中東は一神教の文明、日本は多神教の寛容な宗教観」くらいにしておけばいいのに。

フリーメーソンだった祖父の「友愛」(フラタナティ)を引き継ぐ鳩山首相は、「日本は仏教徒だけのものではありません」と、きっと小沢氏を戒めてくれたことだろう。「日本列島は日本人だけのものじゃない」と言う鳩山首相には、ぜひ同じ口で「朝鮮半島は朝鮮人だけのものではありません」と言ってほしいものだ。「かつては日本のものでした」とまでは言わなくてよろしいので。

◇日々是語草◇
官邸機密費を追及した民主党、政権取ったら知らんぷり

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