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2013年2月22日 (金)

大和朝廷はどこにあったのか。任那日本府(倭府)は実在していた。

◆邪馬台国はどこにあったのか。

邪馬台国と卑弥呼の謎」著:中江克己氏
想像力をかき立てられて一気に読んだ。中江氏は魏志倭人伝を中心に検証していく中で、卑弥呼の邪馬台国の北九州説と奈良説を紹介しているが、無理にどちらか一つに決める必要はないと思った。

なぜなら大和朝廷が国内を統一したのは350年頃とされ、卑弥呼はその100年前くらいのシャーマンである。魏志倭人伝に記されている経路や、また金印発見が博多湾沿岸だったこと等考えて、卑弥呼を中心とする統治形態が北九州にあったことは間違いない。ゆえに卑弥呼の時代を第一期大和朝廷、大王(天皇)中心を第二期大和朝廷と呼んでも差し支えないと思う。

折しもBSイレブンの「グレースオブジャパン」は、今回は橿原(かしはら)神宮を紹介していた。
橿原神宮lは「初代天皇であると伝えられる神武(じんむ)天皇が、橿原宮で即位したという「日本書紀」の記述に基づき、明治23年(1890)に建てられました」という神宮であり、後ろの畝傍山の麓に神武天皇の橿原宮跡があったとされる。日本書紀では、最初から大和朝廷は畿内にあったということになる。

神武天皇の実在性は証明されていない。10代の崇神が初代という説もある。私が注目するのは、大和三山に囲まれたこの地に持統天皇が藤原宮を遷都したということ。大和三山とは天香具山(あまのかぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)。
日本書紀が天武天皇の時から編纂を始めたということから推察し、藤原不比等の捏造あるいはこじつけがあったとして、藤原宮は正統性を強調する必要があったのではないか。神武天皇を初代にする必要があったため、橿原宮と藤原宮を同じ場所に置こうとしたような意図を感じてしまう。

万葉集では「香久山は 畝傍を愛(を)しと 耳成と相争ひき神代より  かくにあるらし  古昔も然にあれこそ  うつせみも嬬を争ふらしき」と詠まれ、三つの山を擬人化して恋敵になったとしている。これは中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の事だとする説がある。
また持統天皇は「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香久山」という有名な歌を詠んだ。天香具山の南麓には天岩戸神社がある。

天武天皇の遺志を継いで持統天皇が藤原京遷都をしたのは694年。7世紀半ばから8世紀にかける150年の間に、実に13回の遷都が行われたという。5世紀前半に作られた仁徳陵は大阪にあるので、古墳時代の応神天皇は、すでに九州にはいなかったはずである。

同じ奈良県の三輪山の麓、桜井市の巻向地区にある纒向遺跡との関係はわからない。遺跡の中心にある箸墓古墳がなぜ「箸」なのかは、崇神天皇と倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と大物主神との逸話にあるが、これが卑弥呼の墓ではないかという説がある。しかし、倭国大乱の後に立てられた卑弥呼ではない。年代が合わない。卑弥呼の後を継いだ親族の台与がヒミコ(日巫女)の墓でもない。ここは古事記・日本書紀にあるとおり、崇神天皇の大伯母の倭迹迹日百襲媛命の墓としておきたい。

とすると、大和朝廷は10代崇神天皇(前97-前30)の時代には奈良県の三輪山に移っていたのか、あるいはもともと居たのか・・・。崇神天皇が日本各地に地方官のような人材を派遣した軌跡を見ると、畿内のほうが信憑性がある。神功皇后も畿内から三韓出兵したとされる。

結局、天孫天照大神を卑弥呼と同一人物としてしまうから混乱するのであって、高千穂に降臨した天照と出雲に国譲りを迫った天照は、一つの太陽信仰の霊格を示す名称であって、実際に渡来してきたのは同じ集団ではなかったと考えるほうが合理的である。あるいは天照が九州を留守にして出雲に直接遠征していったのか?ちょっと違う気がする。伊勢白山道の霊視によると、九州とは違って出雲では想像を絶する民族浄化のようなこともあったとか・・・。伊勢白山道はムー大陸と呼ばれる浮島が実在していて、太陽神としての天照大神を信仰していたとも言っていた。参考までに。

皇国史観では「日本は神国であり,皇祖天照大神の神勅(〈天壌無窮の神勅〉)を奉じ,〈三種の神器〉を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする」。しかし、これをそのまま信ずる必要はない。太陽信仰族の征服物語ということだろう。ただし王朝交代があったとしても、長き歴史において祭祀長たるその価値に揺るぎはない。

◆任那の倭府の実在性について

年表には391年に「大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける」とあるので、仁徳天皇の時代である。ちなみに高句麗はツングース系の扶余族の朱蒙が建国。

「邪馬台国と卑弥呼の謎」から引用させていただく。

さらに『魏志倭人伝』は、馬韓は西にあって、五十余国あること、辰韓は馬韓の東にあり、十二国あること、弁辰(弁韓)はその南で、やはり十二国にわかれていた、と記している。弁辰十二国のなかに「弁辰狗邪国」があるが、これが『魏志倭人伝』では「狗邪韓国」として登場する。古くから日本列島と弁韓とのかかわりは深く、のちに『日本書紀』には「任那(みまな)」として登場するが、「加耶」とも称された。近年、調査研究が進み、この狗邪韓国は現在の釜山の西、洛東江近くの金海郡にあったのではないか、という説が有力だ。金海地域には実際、石器時代以来の遺跡が多い。

日本列島の弥生文化との関わりが遺跡に見られるというのである。もともと交流が盛んだったが、倭人が朝鮮半島に渡り、金海地域に弥生文化を伝えたと思われる痕跡も種々発掘されている。

神功皇后の三韓征伐以後、その皇子である応神天皇が立ち、仁徳天皇に引き継がれて現・釜山近郊の金海に倭府を開き、拠点としたことは事実だった。韓国からの抗議によってなぜ教科書を書き換えなければいけなかったのか理解不能である。

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