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2013年2月16日 (土)

日本書紀の信憑性 天武天皇の背景

日本書紀の信憑性

古代史の隙間を埋める作業は、どんな文献やサイトを読んでも正解はない。天武天皇が編纂を始めた日本書紀と古事記を素直に信ずれば、何の迷いもなく幸せでいられるのだけれど、その天武天皇と兄と伝えられる天智天皇の関係からして怪しい。

天武天皇が編纂を始めた古事記の成立は和銅5年(712)、日本書紀は養老4年 (720)に成立。始まりは、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにある。最終的に持統天皇の時代に日本書紀の責任監修をしたのが藤原不比等であり、皇統の正統性を強調するために捏造箇所が多いとされる。

藤原鎌足(中臣鎌足)は不比等の父親だが、本名は豊璋(百済王子)である。鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)と謀って蘇我王朝を滅ぼした。殺害の背景には、聖徳太子と側近の蘇我氏に対抗する外交対立があったと言われる。

◆王朝交代

壬申の乱について、ここでは詳細は省くが、大海人皇子(天武)が皇位簒奪できたのは、豪族達のバックアップがあったからである。中大兄皇子(天智)は、母・斉明天皇の喪中に百済からの救援に応じて白村江の
戦いをするが大敗。大海人皇子は留守を預かり、豪族達をなだめ、まとめていたようだ。
中大兄皇子は敗戦を予め覚悟しており、多大な犠牲のかわりに百済から優秀な技官らを引き連れてきた。その後この百済人脈が朝廷で力を得ていく。彼らは百済を滅ぼした新羅には恨み骨髄で、「新羅」をシンラと呼ばず、「シラギの奴ら」という蔑称の「シラギ」と呼称したという。

天武天皇が皇位簒奪したと書いたが、わずか1年在位の弘文天皇(大友皇子)と父を同じくする兄弟ではなかったことが推測される。とはいえ、国家神道史観に基づく万世一系の物語を絶対視する必要もないわけで、応神天皇の時にも王朝交代があったのではないか?と思われるので、特に問題視しようとは思わない。

そもそも神武天皇を初代にしたのも辻褄合わせと考えたほうがよいかもしれない。神武も崇神も「ハツクニシラス」として同じ諡号を持つことから、実際は崇神天皇から大和王朝が始まっているのではないかとする説もある。

最も重要なことは、天皇が祭祀長たる資格と権威を万世にわたって保持し続けている奇跡なのである。

日本書紀では天武と天智は父が舒明天皇、母が皇極天皇の実の兄弟とされている。しかし、天武天皇の生年・没年を「正統な書」であるはずの日本書紀には全く記述がない。後世の文献では年齢が逆転してしまう矛盾もある。日本書紀の天武天皇即位前紀には「天武天皇は天智天皇の同母弟」と書かれているので、おそらく異父兄弟であったろう。中大兄皇子は大海人皇子に一目置いており、息子の大友皇子を差し置いて大海人皇子に皇位を譲ろうとしたが、大海人皇子はいったんは辞退する。

◆高向王は蘇我系?

では、大海人皇子の父は誰か。
現在、歴史研究家の小林恵子氏の説が通説になっている。つまり日本書紀の斉明紀の一文「斉明天皇は、初めに用明天皇の孫高向王に嫁いで、漢皇子(あやのみこ)をお生みになった」。すなわち大海人皇子とは漢皇子のこと。

井沢元彦氏は逆説の日本史において、漢皇子の父親が高向王とされていることから、大海人皇子は壬申の乱というクーデターによって王権を簒奪したのではないかという説を唱えているが、高向王の正体がわからない。血統的に断絶したともしないとも言えない。しかし、時の運勢や豪族達の支持があったこと等を考えると、どうも蝦夷(土蜘蛛と呼ばれる国津神)の背景があったのでは?と思われて仕方ない。

驚くことに、天皇の菩提寺である泉湧寺には、天武から称徳までの天武系天皇の位牌がないそうだ。神式の祭祀からも除外されているのは、やはり・・というか、まぁそういうことなんだろう。

◆出雲王朝との関係

乙巳の変において中大兄皇子達は蘇我入鹿を卑劣な手段で首をはねた。それも元妻の皇極天皇の目の前で・・。蘇我一族は断絶したが、大海人皇子が求心力を持っていたとしたらどうか。井沢元彦氏が言うように「祟り信仰」によって、蘇我の怨念を天武天皇と全国の豪族が晴らしたとしたらどうか?いや、新羅系と百済系が場所を変えて戦ったのか?

そして蘇我と物部の皇位継承を巡る戦いもあるわけだが、いろいろすっとばして結論を書くと、物部は饒速日(ニギハヤヒ)系とされるが、ニギハヤヒは物部よりずっと以前から存在する王で、神武天皇と戦ったくだりは出雲の国譲り物語とそっくりである。その後大和王朝に従ったのが内物部、全国に散ったのが外物部。では蘇我氏は?蘇我氏こそ出雲を開いたスサノオにまつわる人物であった。

『日本書紀』 は明らかに出雲の神々を「鬼」とみなしている。
 それだけではない。
 大己貴命の幸魂は大物主神といい、出雲からヤマトに移され三輪山(奈良県櫻井市)で祀られるが、大物主神はヤマト朝廷がもっとも丁重に祭った神であった。いわば、ヤマトにおける出雲神の代表格であり、その大物主神の 「物」 が 「鬼」 の 「モノ」 であるところが重要である。(奈良時代以前、「鬼」は「オニ」とは読まずに「モノ」といっていた)。 (p.150)
 なぜ蘇我入鹿が出雲神スサノオとかかわりを持っていたのだろう。スサノオの祀る出雲大社の真裏の摂社が「素鵞(そが)社」と呼ばれていたのはなぜだろう。  (p.233)
スサノオは牛頭天王と同一とされ、ユダヤの過ぎ越しの祭りとそっくりな「蘇民将来」という札を掲げる行事がある。祇園祭として有名。伊勢白山道によると、モーゼはスサノオの第九格の霊格だそうだ。蘇民の「蘇」は蘇我の民を表すという説もあったりする。蘇我氏の出自はわからないが、出雲王朝との強い因縁をうかがわせるものである。

◆宿題

以上は思いつくままに書いてしまったが、順序立てて項目別にまとめるには、まだまだ謎が多すぎる。少しずつ思いつくままに書いていこうと思う。

とりあえず気になっている事柄。
1,任那日本府について(古代の都市形態)
2,大王(おおきみ)はどこから来たか。
3,魏志倭人伝
4,5人の倭王
5,和風諡号から解く大王の出自
6,出雲王朝、道教、高句麗の関係性
7,天照大神とは
8,国津神と天津神の融合
9,古代ユダヤ、渡来人との融合

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