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2013年2月18日 (月)

資料(3)魏志倭人伝全文(4)魏志倭人伝現代語訳

古代史を俯瞰する時、その当時の風俗を知る上で、いわゆる魏志倭人伝(三国志)が参考になる。

倭国大乱の後、卑弥呼を立てて国内が落ち着き、応神天皇(北九州から畿内に進出した?)を中心とした大和朝廷が確立した頃のこと。「その南に狗奴国(くなこく)がある」という記述から、仲哀大王を悩ませた熊襲がそのまま存在していたことがわかる。
また「牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ない」とあるように、古墳時代前後は列島にはまだ牛馬はいなかった。しかし、古墳時代後半には大量の馬具が副葬品として埋葬され始めた。そこで「失われた4世紀」と呼ばれたりしているわけだが、3世紀には朝鮮半島との往来は盛んで、任那日本府以前に東北アジア系騎馬民族と共に牛馬が入ってきていたのだろう。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称を指して用いられる呼称。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、正史として重んじられたと、中華書局版『三国志』(北京、1959年)の「出版説明」にある。(Wikipedia)

◆魏志倭人伝(全文)

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。

又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。

東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。
男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。

その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。

倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。 屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし。食飲にはヘン豆を用い、手もて食う。 その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。

その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。 真珠・青玉を出す。その山には丹あり。その木にはダン杼・豫樟・ホウ・櫪・投・僵・烏号・楓香あり。その竹には篠・カン・桃支。薑・橘・椒・ジョウ荷あるも、以て滋味となすを知らず。ジ猿・黒雉あり。
その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。 その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。

その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。

女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。

正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。
その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して仮授せしむ。

その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。
壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。


◆魏志倭人伝 現代語訳
安本美典著「最新邪馬台国への道」より転載させていただきました。

第一章 倭の国々


1.倭人について
倭人は、(朝鮮の)帯方(郡)(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(国や村)をなしている。もとは百余国であった。漢のとき(中国に)朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通うところは、三十か国である。

2.狗邪韓国
(帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(南鮮の三韓)をへて、あるときは南(行)し、あるときは東(行)し、倭からみて北岸の狗邪韓国(弁韓・辰韓など十二か国の一つで、加羅すなわち金海付近)にいたる。

3.対馬国
(帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で対馬国にいたる。その大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。いるところは絶島(離れ鳥)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわしく、深林多く、道路は、禽と鹿のこみちのようである。千余戸がある。良田がない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴(米をかうこと)をしている。

4.一支国
また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(大海、対馬海峡)という。一大国(一支国の誤り。壱岐国)にいたる。官(吏)をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林が多い。三千(戸)ばかりの家があ る。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)又南北に(出て)市糴している。

5.末盧国
また、一海をわたる。千余里で、末盧国(肥前の国、松浦郷)にいたる。四千余戸がある。山が海にせまり、沿岸にそって居(住)している。草木が茂りさかえ、行くに前の人をみない(前の人がみえないほどである)。(住民は)よく魚や鰒(あわび)を捕える。水の深浅をとわず、みな沈没してこれをとる。

6.伊都国
東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。 官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸がある。 世々王がある。みな女王国に属している。(そこは帯方)郡使が往来す るときつねにとどまるところである。

7.奴国
東南(行)して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。 百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。 二万余戸がある。

8.不弥国
東行して不弥国(筑前の国、糟屋郡の宇瀰、いまの宇美町付近) にいたる。百里である。官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)という。千余戸がある。

9.投馬国
南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかりである。

10.邪馬台国
南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。七万戸ばかりである。

11.女王国より以北
女三(王の誤り)国より以北は、その戸数・道里は略載するを得べきも、その余の旁(わきの国々)は、遠絶していて、つまびらかにしようとしてもできないことである。

12.女王国の境界
つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。
つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。
これは、女王の境界のつきるところである。
(国名の読みの根拠につい ては、安本美典著『卑弥呼は日本語を話したか』[PHP研究所刊]参照)

13.狗奴国
その南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗(菊池彦か)がある。女王に属していない。

14.一万二干余里の道程
(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。

第二章 倭の風俗

15.黥(いれずみ)
男子は、大(人も、身分の高い人も、またはおとなも)小(人も、身分の低い人も、またはこどもも)なく、みな面に黥をし、身に文をして(からだの表面に絵もようを描いて)いる。
古よりこのかた、その使は中国にいたると、みな大夫(一般に大臣)と自称している。
夏(中国古代の王朝)の后(王)少康(夏六代の王)の子は、会稽(いまの浙江省から江蘇省にかけて会稽郡があった)(の地)に封ぜられたとき、(人々は)髪をきり身に文をし、もって蚊竜の害を避けた。
いま、倭の水人(海人)は、沈没をよくして魚や蛤をとらえ、身に文をして、また大魚・水禽をふせぐまじないにしている。のちには、(いれずみを)やや飾りとしている。
諸国の(者の)身を文にする(仕方)は、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大きく、あるいは小さく、尊卑(の階級によって)差がある。

16.会稽東冶の東
その(倭国との)道里を計(ってみ)ると、まさに会稽(郡)の東冶(県、福建省福州付近)の東にあたる。

17.風俗・髪形・衣服
その風俗は、淫(みだら)でない。
男子は、みなみずら(の髪)を(冠もなく)露(出)している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。
婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。
作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭を つらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)。

18.栽培植物と繊維
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から 繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸 をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。

19.存在しない動物
その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ない。

20.兵器
兵(器)には、矛・楯・木弓をもちいる。木弓は下がみじかく、上が長くなっている。竹の箭は、あるいは、鉄の鏃、あるいは骨の鏃(のもの)である。

21.耳・朱崖との類似
(産物や風俗の)有無するところ、(の状況)は、耳(たんじ:郡の名。いまの広東省県の西北)・朱崖(しゅがい:郡の名。いまの広東省瓊山県の東南。 この二つの郡は、ともにいまの海南島にある)とおなじである。

22.居所・飲食・化粧
倭の地は温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。みな徒跣(はだし)である。 屋室があり、父母兄弟で、寝所を別にしている。
朱丹(赤い顔料)をその身体にぬることは、(ちょうど)中国(人)が粉(おしろい)を用いるがごとくである。
飲食には、竹や木製のたかつきをもちい、手でたべる。

23.葬儀
その(地の)死(事)には、棺があって槨(そとばこ)がない。土を封(も)って冢(つか)をつくる。死ぬと、まず喪(なきがら)を停めること十余日、(その)当時は、肉をたべない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。すでに葬れば、家をあげて(家じゅう)水中にいたり、澡浴(みそぎ)をする。それは(中国における)練沐(ねりぎぬをきての水ごり)のようにする。

24.持衰
渡海して中国にゆききするときには、つねに一人(の人に)は、頭(髪)を梳(くしけず)らず、しらみを(とり)去らず、衣服は垢(あか)によごれ(たままにし)、肉をたべず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。
これを名づけて持衰(衰は、粗末な喪服)としている。 もし旅がうまく行けば、人々は生口(どれい)・財物を与え、もし(途中で)疾病があり、暴害(暴風雨などによる被害)にあえば、すなわち持衰を殺そうとする。その持衰が謹しまなかったからだというのである。

25.鉱産物
(倭国は)真珠・青玉を(産)出する。 その山には、丹(あかつち)がある。

26.植物
その木には、
・(おそらくは、たぶのき)
・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・(ぼけ、あるいは、くさぼけ)
・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りと し、「杉」とする。苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤 りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)
がある。
その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)
・やだけ
・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、「しゅろか」とする)
がある。
・薑(しょうが)
・橘(たちばな。または、こみかん)
・椒(さんしょ う)
・みょうが
があるが、賞味することをしらない。

27.存在する動物
猴(おおざる)・黒雉(きじ)がいる。

28.ト占
その(風)俗に、挙事行来(事を行ない、行き来すること、することはなんでもあまさずすべて)云為(ものを言うこと・行うこと)するところがあれば、すなわち骨をやいてトする。そして吉凶をうらなう。まずトうところを告げる。
そのうらないのとき方は(中国の)令亀の法(亀甲に、よいうらないの結果をだすよう命令したうえで行なう亀トの方法)のごとくである。熱のために生ずるさけめをみて(前)兆をうらなうのである。

29.会同・坐起
その会同(集会)・坐起(立ち居ふるまい)には、父子や男女による(区)別がない。
人の性(情)は、酒をたしなむ。(この下に、斐松之の注が記されている。すなわち、「『魏略』にいう。その俗は、正歳四時を知らない。ただ春耕秋収を記して年紀としているだけである。」)
大人の敬をするところ(敬意の表し方)をみると、ただ手をうって(拍手をして)跪拝(ひざまずいて礼拝すること)にあてる。

30.寿命
その(地の)人(たち)は寿考(考は老)で、あるいは百年、あるいは八・九十年ぐらいである。

31.婚姻形態
その(地の)(風)俗、国の大人はみな四・五婦、下戸(庶民)もあるいは二三(人の)婦(をもつの)である。婦人は、淫でない。妬忌(やきもち)もしない。

32.犯罪と法
盗窃(ぬすみ)せず、諍訟(うったえごと)はすくない。その法を犯すや、軽いものはその妻子を没し(て奴碑とし)、重いものはその門戸(家、家柄)を滅ぼし、親族に(まで罪を)およぼす。

33.尊卑の別
尊卑には、おのおの差序(等級)がある。それぞれ上の人に臣服するにたる(臣服するに十分な上下関係の秩序がある)。

34.租税と市
租賦(租税とかみつぎもの)をおさめる。(それらをおさめるための)邸閣(倉庫)がある。国々に市がある(中華書局版『三国志』の句点にしたがえば、「邸閣の国があり、国に市がある」となる)。(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人)にこれを監(督)させる。

35.一大率
女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。
(倭)王の使が京都(魏の都、洛陽)・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、(帯方)郡の使が倭国に(いたり)およんだときは、みな津(船つき場)に臨んで 伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王(のもと)にいたらせるときに、差錯(不足やくいちがい)がないようにする。

36.下戸と大人
下戸が、大人(身分の高い人)と道路にあい逢えば、逡巡(ためら)いながら 草(叢)に入る。
辞をつたえ、ことを説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるい は跪(ひざまず)き、両手は地に拠せる(平伏する)。これを(大人に対しての) 恭敬(うやまう態度)となしている。
うけこたえの声には、「噫(おお)」とい う。(それは中国の)然諾(よし。同意、賛成の意)のごときものにく らべられる。

第三章 政治と外交

37.女王卑弥呼 倭国大乱
その国は、もとまた男子をもって王としていた。
7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王:ひめみこの音を写したとみられる)という。
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。
(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自(身)にはべらしている。ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。

38.女王国東方の国
女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種である。

39.侏儒国

また侏儒(こびと)の国が、その南に(存)在する。人の長は三・四 尺。女王(国)を去ること四千余里である。

40.裸国・黒歯国
また、裸国(はだかの人の国)・黒歯国(お歯黒の人の国)があり、 またその東南に在る。船行一年でいたることが可(能)であろう。

41.周旋五干余里
倭の地(理)を参問する(人々に問い合わせてみる)に、海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかりである。

42.景初二(三)年の朝献
景初(魏の明帝の年号)2年(238年であるが、じっさいは景初 3年、239年の誤りとみられる。『日本書紀』が引用している『魏志』 および『梁書』『翰苑』は3年とする)6月、倭の女王は、大夫の 難升米(なしめ)等をつかわした。
(帯方)郡にいたり、(中国の)天子(のとこ ろ)にいたって朝献することをもとめた。太守(ここでは帯方郡の長 官)の劉夏は、役人をつかわし、送って、京都(洛陽)にいたらしめ た。

43.魏の皇帝の詔書
その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。 「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する。帯方(郡)の太守劉夏は、使をつかわし、汝の大夫難升米(なしめ)・次使都市牛利(としごり)をおくり、汝が献ずるところ の男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて到らしめた。

汝の在るところははるかに遠くても、すなわち、使をつかわして貢献した。これは汝の忠孝である。我れははなはだ汝を哀れむ(いつくしむ)。いま、汝を親魏倭王となし、金印紫綬(むらさきのくみひも)を仮(あず)ける。装封して(袋に入れて封印して)帯方太守に付して仮授させる。汝、それ種人(種族の人々)を綏憮(なつけること)し、つとめて(天子に)孝順をなせ。

汝の来使難升米・(都市)牛利は、遠きを渉り、道路(たびじ)に(おいて)勤労(よくつとめること)した。いま、難升米をもって、率善中郎将(宮城護衛の武官の長)となし、牛利を率善校尉(軍事や皇帝の護衛をつかさどる官)となす。銀印青綬(あおいくみひも)を仮け、(魏の天子が)引見し、労賜し(ねんごろにいたわり、記念品をたまわり)、還らせる。
いま、絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹・絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張・絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹・紺青(紺青色の織物)五十匹でもって、汝が献ずるところの貢直(みつぎものの値)に答える。また、とくに汝に紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹・細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張・白絹(もようのない白い絹織物)五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)おのおの五十斤をたまう。みな装封して難升米・牛利に付(託)(ことづけ)してある。
還りいたったならば、録受し(目録にあわせながら受けとり)ことごとく(それを)汝の国中の人にしめし、(わが)国家が、汝をあわれんでいるのを知らせるべきである。 ゆえに、(われは)鄭重に好い物をたまわる(与える)のである。」

44.正始元年の郡使来倭
正始(魏の斉王芳の年号)元年(240)、(帯方郡の)太守の弓遵は、建中校尉(武官の名称)の梯儁(ていしゅん)などをつかわし、詔書・印綬を奉じて、倭国にいたらしめた。倭王に拝仮(王に任じ、金印をあずける)し、あわせて詔をもたらして、金・帛(しろぎぬ)・錦・(毛織物)・刀・鏡・采物(色どりの美しいもの)をたまわった。倭王は、使によって上表し、詔恩に答え謝した。

45.正始四年の上献
その四年(正始四、243)、倭王は、また使の大夫の伊声耆(いしぎ)・掖邪狗(ややこ)など八人をつかわし、生口・倭錦・絳青(こうせいけん:あかとあおのまじった絹織物)・緜衣(綿いれ)・帛布(しろぎぬ)・丹・木(もくふ:ゆづか、弓柄で、弓の中央の手にとるところ)・短弓と矢を上献した。掖邪狗などは、壱く(いっせいに)、率善中郎将の印授を拝した(ちょうだいした)。

46.正始六年難升米に黄憧
その六年(正始六、245)、詔して倭の難升米に黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)をたまわり、(帯方)郡に付して(ことづけして)仮授せしめた。

47.卑弥呼と卑弥弓呼との不和
その八年(正始八、247)、(帯方郡の)太守王(おうき)が、(魏国の)官 (庁)に到着した(そして、以下のことを報告した)。
倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(男王の音を、誤り写したか)とは、まえまえから不和であった。
倭(国)では、載斯(さし)・烏越(あお)などを(帯方)郡にいたり、たがいに攻撃する状(況)を説明した。
(郡は)塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らをつかわした。(以前からのいきさつに)よって、(使者たちは)詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、(また)檄(召集の文書、めしぶみ、転じて諭告する文書、ふれぶみ)をつくって、(攻めあうことのないよう)告諭した。

48.卑弥呼の死
卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)の奴婢は百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。

49.女王、壱(台)与
(倭人たちは)また卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(台与。『梁書』『北史』には、台与[臺與]とある)なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。(張)政らは、檄をもって壱与を告諭した。

50.壱(台)与の朝献
壱与(台与)、倭の大夫の率善中郎将掖邪狗(ややこ)ら二十人をつかわし、(張)政らの(帰)還をおくらせた。(倭の使は)よって(そのついでに)、台(ここでは魏都洛陽の中央官庁)にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千(枚)、孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚、異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹を(朝)貢した。

原文(紹輿本による)
安本美典著『最新邪馬台国への道』より引用。
但し、漢字フォントの都合で表現の一部を改めた。

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