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2013年2月

2013年2月25日 (月)

浜田宏一教授の「名目賃金は上がらないほうがいい」の意味。デフレ脱却経路について。

2013.1.20

この内容について補足したいとメモしておいたところ、お約束通り池田信夫氏が、浜田氏は名目賃金は上がらないほうがいいと言っている!トンデモだ!結論、金融緩和は不況の解決にならん!(大筋大意)とブロゴスに書いていた。相変わらず、デフレは不況とイコールと思っているんだね・・・。

(自分のツイートに書き足し)
浜田ゼミにいながらあなたは何を学んだのか。浜田先生をただの時代遅れのケインジアンだと。リバタリアンのあなたには「失業者への思いやり」はなかった。ハイエクの日銀不要論が正しいと思い込んでいるだけじゃないか。。◆池田信夫 blog : 浜田先生の思い出

池田信夫氏は、金融政策も「国家管理」と言い、雇用改善のための金融政策(フィリップ曲線で実証)も「国家社会主義」と言う。彼の説は衒学(上っ面の知識ひけらかし)にすぎない。国が通貨発行権をもっているのだから通貨政策をコントロールのは当たり前だ!

インタゲ政策について、景気を綱に例え「綱引きは引くことは出来るが押すことは出来ない」という批判があった。つまり金融政策は抑制しかできないと。池尾教授が自分が言い出した上手い例えだとツィートしていたのを見たが、抑制は金融引き締め、押すのは「期待インフレ」と財政拡大の一体化政策だ。財政と金融どちらに偏っても弊害がある。

「構造改革派」はとことん財政危機を煽り、財政拡大も金融緩和も反対。無能な正社員をクビにすりゃ需要は拡大するのか?彼らの言う「構造問題」とは、サプライサイドにあると。潜在需要も認めない。ハイパー失業率拡大策を「自然淘汰」とうそぶく「冷血識者」。池田氏なんてデフレ=不況と定義。アウト!

◆超円高とは

まず「超円高」の認識から始めなくてはならない。
野口悠紀雄氏などは、実質実効為替レートでは日本は今でも円安なんだという。いやいや、実質実効為替相場は消費者物価で計算されていることに落とし穴がある。実態は浜田先生が言うとおり

円高でエルピーダメモリがつぶれ、奇跡と言われた高度成長を担っていた輸出産業、ソニー、パナソニック、シャープなどが苦しんでいるのは、超円高のせいです。円高はドルに対して円の価値が高過ぎ、デフレはモノに対して貨幣の価値が高過ぎる。

為替とは言うまでもなく貨幣の相対で決まる。
各国のベースマネーの絶対量を比較するのではなく、変化量を比較しないと、金融緩和が十分か否かを論じることはできません」と浜田氏の言うとおりである。
リーマンショック以後、各国は渾身の金融緩和策を採り、米国もスタグフレーションが来る来るとオオカミ学者に脅されながらも、デフレを回避した。米国の失業率が高いのは移民政策にも関係しているので、日本の失業率の数字とは単純に比較できない。
日本は、時あたかも増税・財政再建至上主義の与謝野が経済政策の実権を握り、サブプライムローンの直接の被害は少なかったにも関わらず、麻生政権はデフレを長引かせてしまった。

今日本が直面している問題は、経済が潜在生産能力のはるか下のところで運行していることです。金融を引き締めし過ぎていて、日本経済は実力を発揮し切っていない。つまり、失業、過剰設備の存在のために需給ギャップがあって、潜在生産能力の一部が失われているのです。

需要(カネ回り)が落ちれば企業収益が悪化し、潜在生産能力も失われる。池田氏・池尾氏のイケイケコンビは、金融緩和してもカネは死蔵されているのだから、これ以上ジャブジャブにしたら金利が上がり、国債暴落、ハイパーインフレになると言っている。国の借金がチャラになるから、いっそ焼け野原になったらいいとさえ言う。国の借金とは国民の資産なのだが、この人は一体何を言っているのだろう。戦後のハイパーインフレの原因は超過需要だったんだけど。

少子化になろうが、潜在需要は高いのだ。それは非自発的失業者が多いことが証明する。デフレの弊害は、需要が落ちて雇用のパイが縮小することにある。

しかし、そういう人たちは、債券市場だけ見ていて、株式市場や不動産市場を見ていない。20世紀が生んだ大経済学者の1人で、恩師のジェームス・トービンは、企業の資産と市場での評価を測る指標として「q理論」を提唱しました。

この理論では、株式や不動産への投資機運の高まりが、株価を上昇させ、その結果企業がより投資しやすくなるということを指摘しています。日本でもこの効果が、本多祐三教授らによって確かめられています。

◆デフレ脱却の経路について

岩田規久男氏も「担保となる資産価値の上昇」を挙げている。「資産市場が変化することによって、モノの世界の需要が増えるという経路だ」と。

岩田規久男教授の『デフレ脱却のメカニズム』
・日銀が3%±1%のインフレ目標にコミット
・長期国債買いオペによるマネタリーベースの拡大
・予想インフレ率上昇
・予想実質金利低下=実質金利-予想インフレ率
・株価上昇、円安
・消費、投資、輸出増加 貨幣の取引流通速度上昇
・デフレ脱却

◆名目賃金について

 物価が上がっても国民の賃金はすぐには上がりません。インフレ率と失業の相関関係を示すフィリップス曲線(インフレ率が上昇すると失業率が下がることを示す)を見てもわかる通り、名目賃金には硬直性があるため、期待インフレ率が上がると、実質賃金は一時的に下がり、そのため雇用が増えるのです。こうした経路を経て、緩やかな物価上昇の中で実質所得の増加へとつながっていくのです。

  その意味では、雇用されている人々が、実質賃金の面では少しずつ我慢し、失業者を減らして、それが生産のパイを増やす。それが安定的な景気回復につながり、国民生活が全体的に豊かになるというのが、リフレ政策と言えます。

リフレ派が一番声を大にして主張するのが、雇用の改善ということ。

よく「名目賃金が上がらないとダメ」と言われますが、名目賃金はむしろ上がらないほうがいい。名目賃金が上がると企業収益が増えず、雇用が増えなくなるからです。それだとインフレ政策の意味がなくなってしまい、むしろこれ以上物価が上昇しないよう、止める必要が出て来る。こうしたことは、あまり理解されていないように思います。

要するに、デフレでは実質賃金は高くなる。インフレ目標を決めて緩和を始めると、市場が動き出し、円高是正・株価が上がり始める。すると資産価値が上がり、実質金利は低くなり、企業の投資環境が良くなってくる。ここまではまだ賃金は硬直したまま。

実質=名目ー予想インフレ なので、予想インフレ率が高くなれば実質賃金は低い状態になる。名目=実質+予想インフレ率なので、マイナスだった市場の予想がプラスに転ずれば名目も上がっていくが、ちょっと待てと。デフレでは実質が異常に高くなっている。だから需給ギャップが大きくなる一方だった。本当の景気回復は、担保となる資産価値が上がってからなので、企業の投資が始まってからの話。

◆金融緩和と雇用改善

すぐに実質賃金が上がらなくても、投資が始まれば雇用のパイが大きくなっていく。企業の「予想需要率」も高まるからだ。

浜田先生が失業者への思いやりを持たなければ金融政策の意味がないと感じたのは、そういうこと。リフレ派の主張はまず雇用なのである。これは社会主義政策か?だったら国の通貨発行権も取り上げなきゃね、という話よ。雇用を連呼していた総理大臣がいたが、悲しくなるほどデフレ脱却の道筋がわかっていなかった。

繰り返すが、潜在需要は大きいのである。手持ちのカネ(給与)が少なくても、雇用市場が安定してくれば失業の不安もやわらぎ、ローンも組むことができる。カネがあれば、欲しいものはたくさんある。欲しい物を我慢していない?我慢している人が多いデフレでは、「安い物しか買えない」という切実な現実がある。需要も落ちるのは当たり前。この我慢の結果としての需要減だけを見て、日本はもう成長しないと決めつける財政再建派(デフレ維持派)は、本当に誤誘導していると思う。

ということで、池田信夫氏の反論はそもそも為替とデフレの意味がわかっていないので、論評に値しないということである。

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2013年2月22日 (金)

大和朝廷はどこにあったのか。任那日本府(倭府)は実在していた。

◆邪馬台国はどこにあったのか。

邪馬台国と卑弥呼の謎」著:中江克己氏
想像力をかき立てられて一気に読んだ。中江氏は魏志倭人伝を中心に検証していく中で、卑弥呼の邪馬台国の北九州説と奈良説を紹介しているが、無理にどちらか一つに決める必要はないと思った。

なぜなら大和朝廷が国内を統一したのは350年頃とされ、卑弥呼はその100年前くらいのシャーマンである。魏志倭人伝に記されている経路や、また金印発見が博多湾沿岸だったこと等考えて、卑弥呼を中心とする統治形態が北九州にあったことは間違いない。ゆえに卑弥呼の時代を第一期大和朝廷、大王(天皇)中心を第二期大和朝廷と呼んでも差し支えないと思う。

折しもBSイレブンの「グレースオブジャパン」は、今回は橿原(かしはら)神宮を紹介していた。
橿原神宮lは「初代天皇であると伝えられる神武(じんむ)天皇が、橿原宮で即位したという「日本書紀」の記述に基づき、明治23年(1890)に建てられました」という神宮であり、後ろの畝傍山の麓に神武天皇の橿原宮跡があったとされる。日本書紀では、最初から大和朝廷は畿内にあったということになる。

神武天皇の実在性は証明されていない。10代の崇神が初代という説もある。私が注目するのは、大和三山に囲まれたこの地に持統天皇が藤原宮を遷都したということ。大和三山とは天香具山(あまのかぐやま)・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)。
日本書紀が天武天皇の時から編纂を始めたということから推察し、藤原不比等の捏造あるいはこじつけがあったとして、藤原宮は正統性を強調する必要があったのではないか。神武天皇を初代にする必要があったため、橿原宮と藤原宮を同じ場所に置こうとしたような意図を感じてしまう。

万葉集では「香久山は 畝傍を愛(を)しと 耳成と相争ひき神代より  かくにあるらし  古昔も然にあれこそ  うつせみも嬬を争ふらしき」と詠まれ、三つの山を擬人化して恋敵になったとしている。これは中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の事だとする説がある。
また持統天皇は「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香久山」という有名な歌を詠んだ。天香具山の南麓には天岩戸神社がある。

天武天皇の遺志を継いで持統天皇が藤原京遷都をしたのは694年。7世紀半ばから8世紀にかける150年の間に、実に13回の遷都が行われたという。5世紀前半に作られた仁徳陵は大阪にあるので、古墳時代の応神天皇は、すでに九州にはいなかったはずである。

同じ奈良県の三輪山の麓、桜井市の巻向地区にある纒向遺跡との関係はわからない。遺跡の中心にある箸墓古墳がなぜ「箸」なのかは、崇神天皇と倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と大物主神との逸話にあるが、これが卑弥呼の墓ではないかという説がある。しかし、倭国大乱の後に立てられた卑弥呼ではない。年代が合わない。卑弥呼の後を継いだ親族の台与がヒミコ(日巫女)の墓でもない。ここは古事記・日本書紀にあるとおり、崇神天皇の大伯母の倭迹迹日百襲媛命の墓としておきたい。

とすると、大和朝廷は10代崇神天皇(前97-前30)の時代には奈良県の三輪山に移っていたのか、あるいはもともと居たのか・・・。崇神天皇が日本各地に地方官のような人材を派遣した軌跡を見ると、畿内のほうが信憑性がある。神功皇后も畿内から三韓出兵したとされる。

結局、天孫天照大神を卑弥呼と同一人物としてしまうから混乱するのであって、高千穂に降臨した天照と出雲に国譲りを迫った天照は、一つの太陽信仰の霊格を示す名称であって、実際に渡来してきたのは同じ集団ではなかったと考えるほうが合理的である。あるいは天照が九州を留守にして出雲に直接遠征していったのか?ちょっと違う気がする。伊勢白山道の霊視によると、九州とは違って出雲では想像を絶する民族浄化のようなこともあったとか・・・。伊勢白山道はムー大陸と呼ばれる浮島が実在していて、太陽神としての天照大神を信仰していたとも言っていた。参考までに。

皇国史観では「日本は神国であり,皇祖天照大神の神勅(〈天壌無窮の神勅〉)を奉じ,〈三種の神器〉を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする」。しかし、これをそのまま信ずる必要はない。太陽信仰族の征服物語ということだろう。ただし王朝交代があったとしても、長き歴史において祭祀長たるその価値に揺るぎはない。

◆任那の倭府の実在性について

年表には391年に「大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける」とあるので、仁徳天皇の時代である。ちなみに高句麗はツングース系の扶余族の朱蒙が建国。

「邪馬台国と卑弥呼の謎」から引用させていただく。

さらに『魏志倭人伝』は、馬韓は西にあって、五十余国あること、辰韓は馬韓の東にあり、十二国あること、弁辰(弁韓)はその南で、やはり十二国にわかれていた、と記している。弁辰十二国のなかに「弁辰狗邪国」があるが、これが『魏志倭人伝』では「狗邪韓国」として登場する。古くから日本列島と弁韓とのかかわりは深く、のちに『日本書紀』には「任那(みまな)」として登場するが、「加耶」とも称された。近年、調査研究が進み、この狗邪韓国は現在の釜山の西、洛東江近くの金海郡にあったのではないか、という説が有力だ。金海地域には実際、石器時代以来の遺跡が多い。

日本列島の弥生文化との関わりが遺跡に見られるというのである。もともと交流が盛んだったが、倭人が朝鮮半島に渡り、金海地域に弥生文化を伝えたと思われる痕跡も種々発掘されている。

神功皇后の三韓征伐以後、その皇子である応神天皇が立ち、仁徳天皇に引き継がれて現・釜山近郊の金海に倭府を開き、拠点としたことは事実だった。韓国からの抗議によってなぜ教科書を書き換えなければいけなかったのか理解不能である。

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2013年2月19日 (火)

任那の倭府は大和朝廷の出先機関だった

◆任那は金官加羅(加耶)


4世紀末の朝鮮

任那は金官加羅を指す。

414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。
Wikipedia
『日本書紀』では加羅と任那が併記される。

任那日本府の称は、国号が日本と定まった後世に呼称されるようになったものであり、任那日本府が存在したとされる時代にあっては、倭府と称したとみる向きもある。

言うなれば倭国の出先統治機関であった。

日本府の構成員は倭から派遣された地方長官である府卿、府臣、執事の三階があり、在地倭人がこれに任じられたとされる。

大和朝廷にとってなぜ加耶が重要拠点だったかというと、資源の宝庫だった。「中国の三国志には弁辰(伽耶)からの鉄が、韓、穢(ワイ)、楽浪郡、帯方郡にまで、供給されていると書かれている」と。

以下、重要な内容。


金官伽耶の王家は、3世紀半ばに伽耶の「主浦村(しゅほそん)」という小さな村から出ている。この「主浦」は古代朝鮮語では「ニムナ」と発音されていた。これが金官伽耶の別名ともなり、日本では金官伽耶を「任那」と呼んでいた。

任那の倭府が大和政権とリンクしていたことをうかがわせる。このサイトでは、欽明天皇が加耶出身としている。

好太王碑文では、この連合体は倭国が指導的に組織し、高句麗に攻め込んだと記述されている。韓国の歴史家は、これを百済が中心になり組織したと主張している。筆者は、好太王碑文面「倭は海を渡ってきて百済や新羅などを臣民とした」という内容からして倭国が指導的に組織したと見ている。

つまり、3世紀におきた百済、新羅、伽耶の国家は、少なくとも4世紀までは朝鮮を代表する国家ではなく、北の高句麗に対峙するため大和政権に依存していた。この時期の朝鮮を代表する国家はあくまで高句麗であった。

「日韓併合」の根拠とされる理由がここにある。後進国を束ね、近代化を急ぎ、列強に対抗しようとした構図とそっくりである。

高句麗は騎馬民族であり、4世紀に高句麗=高麗(コマ)が列島に流入して朝廷と和し、大きな勢力基盤を築いた。関東にも「コマ」の痕跡がたくさん残っている。

◆5人の倭王

魏志倭人伝では「邪馬台国王」、5世紀の宋書では「倭国王」として記述される。中国名として記されているが、「日本書紀」から読み解くと

・讃 → 履中天皇
・珍 → 反正天皇
・済 → 允恭天皇
・興 → 安康天皇
・武 → 雄略天皇

となるという。つまり仁徳天皇の時にはすでに大和朝廷が北九州から畿内に移っていたと。たぶん履中天皇の祖父・応神天皇の時になんらかの王朝交代があったのでは?仲哀大王→神功皇后の不自然な出産にまつわる逸話、熊襲との戦い、この過程が空白なのである・・・。

神功皇后が産んだのが応神天皇。そして日本各地の八幡神社は応神天皇をお祭りしている。八幡神とは何か?

応神天皇と八幡神社を参考にどうぞ

八幡はヤハタ、ヤハウェ、失われたユダ族を意味する「ヤフダ」、‥‥応神天皇の諡号は「ホムダワケ」であるが、古代ユダヤ語で解くと「新しい神殿を立ち上げよ」となる。その神殿を立ち上げたのが、謎の多い泰氏一族。

話がややこしくなるので、古代ユダヤの関係は別項で。

◆任那の倭府を認めない韓国。抗議を受けて日本の教科書から消された。

朝鮮半島に話を戻すと、古代朝鮮は他民族の部族社会と小都市の集まりであって、支配層は高句麗だった。高句麗は扶余系であり、倭人もいた。倭人とは現在の日本人とは限らず、華南の「越」人だという。倭と韓の連合体が形成されていたと考えると合点がいく。

韓国側の「日本領など絶対認められない」という感情論もあると思うが、古代も日本に占領されていたと被害妄想するからおかしなことになる。複数の史実に書かれていたものの存在自体を消すことはできない。

全羅南道順天雲坪里(チョンラナムド・スンチョン・ウンピョンリ)の古墳群で、日本の「任那日本府説」の虚構を立証する遺物が大量に出土した。一部の日本の学者が主張してきた「任那四県」地域で、大伽耶系の遺物だけが出土し、日本系の遺物は全く出てこなかったからだ。

だって加耶系だったのだから不思議ではない。このように一生懸命日本の捏造と言っているのだが、天皇が加耶系(だたし朝鮮民族とはDNAの違う倭人)と言ったら心臓麻痺でも起こすだろうか(笑)

もちろん証明する術はない。

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2013年2月18日 (月)

資料(3)魏志倭人伝全文(4)魏志倭人伝現代語訳

古代史を俯瞰する時、その当時の風俗を知る上で、いわゆる魏志倭人伝(三国志)が参考になる。

倭国大乱の後、卑弥呼を立てて国内が落ち着き、応神天皇(北九州から畿内に進出した?)を中心とした大和朝廷が確立した頃のこと。「その南に狗奴国(くなこく)がある」という記述から、仲哀大王を悩ませた熊襲がそのまま存在していたことがわかる。
また「牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ない」とあるように、古墳時代前後は列島にはまだ牛馬はいなかった。しかし、古墳時代後半には大量の馬具が副葬品として埋葬され始めた。そこで「失われた4世紀」と呼ばれたりしているわけだが、3世紀には朝鮮半島との往来は盛んで、任那日本府以前に東北アジア系騎馬民族と共に牛馬が入ってきていたのだろう。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称を指して用いられる呼称。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年(呉の滅亡)-297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、正史として重んじられたと、中華書局版『三国志』(北京、1959年)の「出版説明」にある。(Wikipedia)

◆魏志倭人伝(全文)

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。

又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。

又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。

東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。
男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。

その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。

倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。 屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし。食飲にはヘン豆を用い、手もて食う。 その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。

その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。 真珠・青玉を出す。その山には丹あり。その木にはダン杼・豫樟・ホウ・櫪・投・僵・烏号・楓香あり。その竹には篠・カン・桃支。薑・橘・椒・ジョウ荷あるも、以て滋味となすを知らず。ジ猿・黒雉あり。
その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。 その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。

その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。

女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫という、比するに然諾の如し。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。

正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。
その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して仮授せしむ。

その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。
壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。


◆魏志倭人伝 現代語訳
安本美典著「最新邪馬台国への道」より転載させていただきました。

第一章 倭の国々


1.倭人について
倭人は、(朝鮮の)帯方(郡)(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(国や村)をなしている。もとは百余国であった。漢のとき(中国に)朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通うところは、三十か国である。

2.狗邪韓国
(帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(南鮮の三韓)をへて、あるときは南(行)し、あるときは東(行)し、倭からみて北岸の狗邪韓国(弁韓・辰韓など十二か国の一つで、加羅すなわち金海付近)にいたる。

3.対馬国
(帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で対馬国にいたる。その大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。いるところは絶島(離れ鳥)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわしく、深林多く、道路は、禽と鹿のこみちのようである。千余戸がある。良田がない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴(米をかうこと)をしている。

4.一支国
また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(大海、対馬海峡)という。一大国(一支国の誤り。壱岐国)にいたる。官(吏)をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林が多い。三千(戸)ばかりの家があ る。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)又南北に(出て)市糴している。

5.末盧国
また、一海をわたる。千余里で、末盧国(肥前の国、松浦郷)にいたる。四千余戸がある。山が海にせまり、沿岸にそって居(住)している。草木が茂りさかえ、行くに前の人をみない(前の人がみえないほどである)。(住民は)よく魚や鰒(あわび)を捕える。水の深浅をとわず、みな沈没してこれをとる。

6.伊都国
東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。 官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸がある。 世々王がある。みな女王国に属している。(そこは帯方)郡使が往来す るときつねにとどまるところである。

7.奴国
東南(行)して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。 百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。 二万余戸がある。

8.不弥国
東行して不弥国(筑前の国、糟屋郡の宇瀰、いまの宇美町付近) にいたる。百里である。官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)という。千余戸がある。

9.投馬国
南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかりである。

10.邪馬台国
南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。七万戸ばかりである。

11.女王国より以北
女三(王の誤り)国より以北は、その戸数・道里は略載するを得べきも、その余の旁(わきの国々)は、遠絶していて、つまびらかにしようとしてもできないことである。

12.女王国の境界
つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。
つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。
これは、女王の境界のつきるところである。
(国名の読みの根拠につい ては、安本美典著『卑弥呼は日本語を話したか』[PHP研究所刊]参照)

13.狗奴国
その南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗(菊池彦か)がある。女王に属していない。

14.一万二干余里の道程
(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。

第二章 倭の風俗

15.黥(いれずみ)
男子は、大(人も、身分の高い人も、またはおとなも)小(人も、身分の低い人も、またはこどもも)なく、みな面に黥をし、身に文をして(からだの表面に絵もようを描いて)いる。
古よりこのかた、その使は中国にいたると、みな大夫(一般に大臣)と自称している。
夏(中国古代の王朝)の后(王)少康(夏六代の王)の子は、会稽(いまの浙江省から江蘇省にかけて会稽郡があった)(の地)に封ぜられたとき、(人々は)髪をきり身に文をし、もって蚊竜の害を避けた。
いま、倭の水人(海人)は、沈没をよくして魚や蛤をとらえ、身に文をして、また大魚・水禽をふせぐまじないにしている。のちには、(いれずみを)やや飾りとしている。
諸国の(者の)身を文にする(仕方)は、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大きく、あるいは小さく、尊卑(の階級によって)差がある。

16.会稽東冶の東
その(倭国との)道里を計(ってみ)ると、まさに会稽(郡)の東冶(県、福建省福州付近)の東にあたる。

17.風俗・髪形・衣服
その風俗は、淫(みだら)でない。
男子は、みなみずら(の髪)を(冠もなく)露(出)している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。
婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。
作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭を つらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)。

18.栽培植物と繊維
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から 繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸 をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。

19.存在しない動物
その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ない。

20.兵器
兵(器)には、矛・楯・木弓をもちいる。木弓は下がみじかく、上が長くなっている。竹の箭は、あるいは、鉄の鏃、あるいは骨の鏃(のもの)である。

21.耳・朱崖との類似
(産物や風俗の)有無するところ、(の状況)は、耳(たんじ:郡の名。いまの広東省県の西北)・朱崖(しゅがい:郡の名。いまの広東省瓊山県の東南。 この二つの郡は、ともにいまの海南島にある)とおなじである。

22.居所・飲食・化粧
倭の地は温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。みな徒跣(はだし)である。 屋室があり、父母兄弟で、寝所を別にしている。
朱丹(赤い顔料)をその身体にぬることは、(ちょうど)中国(人)が粉(おしろい)を用いるがごとくである。
飲食には、竹や木製のたかつきをもちい、手でたべる。

23.葬儀
その(地の)死(事)には、棺があって槨(そとばこ)がない。土を封(も)って冢(つか)をつくる。死ぬと、まず喪(なきがら)を停めること十余日、(その)当時は、肉をたべない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。すでに葬れば、家をあげて(家じゅう)水中にいたり、澡浴(みそぎ)をする。それは(中国における)練沐(ねりぎぬをきての水ごり)のようにする。

24.持衰
渡海して中国にゆききするときには、つねに一人(の人に)は、頭(髪)を梳(くしけず)らず、しらみを(とり)去らず、衣服は垢(あか)によごれ(たままにし)、肉をたべず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。
これを名づけて持衰(衰は、粗末な喪服)としている。 もし旅がうまく行けば、人々は生口(どれい)・財物を与え、もし(途中で)疾病があり、暴害(暴風雨などによる被害)にあえば、すなわち持衰を殺そうとする。その持衰が謹しまなかったからだというのである。

25.鉱産物
(倭国は)真珠・青玉を(産)出する。 その山には、丹(あかつち)がある。

26.植物
その木には、
・(おそらくは、たぶのき)
・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・(ぼけ、あるいは、くさぼけ)
・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りと し、「杉」とする。苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤 りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)
がある。
その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)
・やだけ
・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、「しゅろか」とする)
がある。
・薑(しょうが)
・橘(たちばな。または、こみかん)
・椒(さんしょ う)
・みょうが
があるが、賞味することをしらない。

27.存在する動物
猴(おおざる)・黒雉(きじ)がいる。

28.ト占
その(風)俗に、挙事行来(事を行ない、行き来すること、することはなんでもあまさずすべて)云為(ものを言うこと・行うこと)するところがあれば、すなわち骨をやいてトする。そして吉凶をうらなう。まずトうところを告げる。
そのうらないのとき方は(中国の)令亀の法(亀甲に、よいうらないの結果をだすよう命令したうえで行なう亀トの方法)のごとくである。熱のために生ずるさけめをみて(前)兆をうらなうのである。

29.会同・坐起
その会同(集会)・坐起(立ち居ふるまい)には、父子や男女による(区)別がない。
人の性(情)は、酒をたしなむ。(この下に、斐松之の注が記されている。すなわち、「『魏略』にいう。その俗は、正歳四時を知らない。ただ春耕秋収を記して年紀としているだけである。」)
大人の敬をするところ(敬意の表し方)をみると、ただ手をうって(拍手をして)跪拝(ひざまずいて礼拝すること)にあてる。

30.寿命
その(地の)人(たち)は寿考(考は老)で、あるいは百年、あるいは八・九十年ぐらいである。

31.婚姻形態
その(地の)(風)俗、国の大人はみな四・五婦、下戸(庶民)もあるいは二三(人の)婦(をもつの)である。婦人は、淫でない。妬忌(やきもち)もしない。

32.犯罪と法
盗窃(ぬすみ)せず、諍訟(うったえごと)はすくない。その法を犯すや、軽いものはその妻子を没し(て奴碑とし)、重いものはその門戸(家、家柄)を滅ぼし、親族に(まで罪を)およぼす。

33.尊卑の別
尊卑には、おのおの差序(等級)がある。それぞれ上の人に臣服するにたる(臣服するに十分な上下関係の秩序がある)。

34.租税と市
租賦(租税とかみつぎもの)をおさめる。(それらをおさめるための)邸閣(倉庫)がある。国々に市がある(中華書局版『三国志』の句点にしたがえば、「邸閣の国があり、国に市がある」となる)。(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人)にこれを監(督)させる。

35.一大率
女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。
(倭)王の使が京都(魏の都、洛陽)・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、(帯方)郡の使が倭国に(いたり)およんだときは、みな津(船つき場)に臨んで 伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王(のもと)にいたらせるときに、差錯(不足やくいちがい)がないようにする。

36.下戸と大人
下戸が、大人(身分の高い人)と道路にあい逢えば、逡巡(ためら)いながら 草(叢)に入る。
辞をつたえ、ことを説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるい は跪(ひざまず)き、両手は地に拠せる(平伏する)。これを(大人に対しての) 恭敬(うやまう態度)となしている。
うけこたえの声には、「噫(おお)」とい う。(それは中国の)然諾(よし。同意、賛成の意)のごときものにく らべられる。

第三章 政治と外交

37.女王卑弥呼 倭国大乱
その国は、もとまた男子をもって王としていた。
7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王:ひめみこの音を写したとみられる)という。
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。
(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自(身)にはべらしている。ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。

38.女王国東方の国
女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種である。

39.侏儒国

また侏儒(こびと)の国が、その南に(存)在する。人の長は三・四 尺。女王(国)を去ること四千余里である。

40.裸国・黒歯国
また、裸国(はだかの人の国)・黒歯国(お歯黒の人の国)があり、 またその東南に在る。船行一年でいたることが可(能)であろう。

41.周旋五干余里
倭の地(理)を参問する(人々に問い合わせてみる)に、海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかりである。

42.景初二(三)年の朝献
景初(魏の明帝の年号)2年(238年であるが、じっさいは景初 3年、239年の誤りとみられる。『日本書紀』が引用している『魏志』 および『梁書』『翰苑』は3年とする)6月、倭の女王は、大夫の 難升米(なしめ)等をつかわした。
(帯方)郡にいたり、(中国の)天子(のとこ ろ)にいたって朝献することをもとめた。太守(ここでは帯方郡の長 官)の劉夏は、役人をつかわし、送って、京都(洛陽)にいたらしめ た。

43.魏の皇帝の詔書
その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。 「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する。帯方(郡)の太守劉夏は、使をつかわし、汝の大夫難升米(なしめ)・次使都市牛利(としごり)をおくり、汝が献ずるところ の男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて到らしめた。

汝の在るところははるかに遠くても、すなわち、使をつかわして貢献した。これは汝の忠孝である。我れははなはだ汝を哀れむ(いつくしむ)。いま、汝を親魏倭王となし、金印紫綬(むらさきのくみひも)を仮(あず)ける。装封して(袋に入れて封印して)帯方太守に付して仮授させる。汝、それ種人(種族の人々)を綏憮(なつけること)し、つとめて(天子に)孝順をなせ。

汝の来使難升米・(都市)牛利は、遠きを渉り、道路(たびじ)に(おいて)勤労(よくつとめること)した。いま、難升米をもって、率善中郎将(宮城護衛の武官の長)となし、牛利を率善校尉(軍事や皇帝の護衛をつかさどる官)となす。銀印青綬(あおいくみひも)を仮け、(魏の天子が)引見し、労賜し(ねんごろにいたわり、記念品をたまわり)、還らせる。
いま、絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹・絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張・絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹・紺青(紺青色の織物)五十匹でもって、汝が献ずるところの貢直(みつぎものの値)に答える。また、とくに汝に紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹・細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張・白絹(もようのない白い絹織物)五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)おのおの五十斤をたまう。みな装封して難升米・牛利に付(託)(ことづけ)してある。
還りいたったならば、録受し(目録にあわせながら受けとり)ことごとく(それを)汝の国中の人にしめし、(わが)国家が、汝をあわれんでいるのを知らせるべきである。 ゆえに、(われは)鄭重に好い物をたまわる(与える)のである。」

44.正始元年の郡使来倭
正始(魏の斉王芳の年号)元年(240)、(帯方郡の)太守の弓遵は、建中校尉(武官の名称)の梯儁(ていしゅん)などをつかわし、詔書・印綬を奉じて、倭国にいたらしめた。倭王に拝仮(王に任じ、金印をあずける)し、あわせて詔をもたらして、金・帛(しろぎぬ)・錦・(毛織物)・刀・鏡・采物(色どりの美しいもの)をたまわった。倭王は、使によって上表し、詔恩に答え謝した。

45.正始四年の上献
その四年(正始四、243)、倭王は、また使の大夫の伊声耆(いしぎ)・掖邪狗(ややこ)など八人をつかわし、生口・倭錦・絳青(こうせいけん:あかとあおのまじった絹織物)・緜衣(綿いれ)・帛布(しろぎぬ)・丹・木(もくふ:ゆづか、弓柄で、弓の中央の手にとるところ)・短弓と矢を上献した。掖邪狗などは、壱く(いっせいに)、率善中郎将の印授を拝した(ちょうだいした)。

46.正始六年難升米に黄憧
その六年(正始六、245)、詔して倭の難升米に黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)をたまわり、(帯方)郡に付して(ことづけして)仮授せしめた。

47.卑弥呼と卑弥弓呼との不和
その八年(正始八、247)、(帯方郡の)太守王(おうき)が、(魏国の)官 (庁)に到着した(そして、以下のことを報告した)。
倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(男王の音を、誤り写したか)とは、まえまえから不和であった。
倭(国)では、載斯(さし)・烏越(あお)などを(帯方)郡にいたり、たがいに攻撃する状(況)を説明した。
(郡は)塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らをつかわした。(以前からのいきさつに)よって、(使者たちは)詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、(また)檄(召集の文書、めしぶみ、転じて諭告する文書、ふれぶみ)をつくって、(攻めあうことのないよう)告諭した。

48.卑弥呼の死
卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)の奴婢は百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。

49.女王、壱(台)与
(倭人たちは)また卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(台与。『梁書』『北史』には、台与[臺與]とある)なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。(張)政らは、檄をもって壱与を告諭した。

50.壱(台)与の朝献
壱与(台与)、倭の大夫の率善中郎将掖邪狗(ややこ)ら二十人をつかわし、(張)政らの(帰)還をおくらせた。(倭の使は)よって(そのついでに)、台(ここでは魏都洛陽の中央官庁)にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千(枚)、孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚、異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹を(朝)貢した。

原文(紹輿本による)
安本美典著『最新邪馬台国への道』より引用。
但し、漢字フォントの都合で表現の一部を改めた。

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2013年2月17日 (日)

資料(1)歴代天皇系譜(2)日本史年表

●資料 (1)歴代天皇一覧
参照:神々の国しまね 太陽王朝の系譜より
‥‥女性天皇はWikipedia
‥‥天武天皇より前は大王(おおきみ)と称した。

1:神武天皇前660-前585 / 2:綏靖天皇前581-前549 / 3:安寧天皇前549-前511 / 4:懿徳天皇前510-前477 / 5:孝昭天皇前475-前393 / 6:孝安天皇前392-前291 / 7:孝霊天皇前290-前215 / 8:孝元天皇前214-前158 / 9:開化天皇前158-前98 / 10:崇神天皇前97-前30 / 11:垂仁天皇前29-70 / 12:景行天皇71-130 / 13:成務天皇131-190 / 14:仲哀天皇192-200
追記:仲哀天皇は、成務天皇の御子ではなく、成務天皇の弟・日本武尊の御子だった

<古墳時代>
15:応神天皇270-310(母・神功皇后) / 16:仁徳天皇313-399 / 17:履中天皇400-405 / 18:反正天皇406-410 / 19:允恭天皇412-453 / 20:安康天皇453-456 / 21:雄略天皇456-479 / 22:清寧天皇480-484 / 23:顕宗天皇485-487 / 24:仁賢天皇488-498 / 25:武烈天皇498-506 / 26:継体天皇507-531 / 27:安閑天皇531-535 / 28:宣化天皇535-539 / 29:欽明天皇539-571 / 30:敏達天皇572-585 / 31:用明天皇585-587 / 32:崇峻天皇587-592

<飛鳥時代>
33:推古天皇(第29代欽明天皇の皇女、第30代敏達天皇の皇后)592-628 / 34:舒明天皇629-641 / 35:皇極天皇(敏達天皇の男系の曾孫、第34代舒明天皇の皇后)642-645 / 36:孝徳天皇645-654 / 37:斉明天皇(皇極天皇の重祚)655-661 / 38:天智天皇661-671 / 39:弘文天皇671-672 / 40:天武天皇673-686 / 41:持統天皇(第38代天智天皇の皇女、第40代天武天皇の皇后)686-697 / 42:文武天皇697-707

<奈良時代>
43:元明天皇(天智天皇の皇女、皇太子草壁皇子(天武天皇皇子)の妃)707-715 / 44:元正天皇(草壁皇子の娘、生涯独身)715-724 / 45:聖武天皇724-749 / 46:孝謙天皇(第45代聖武天皇の皇女、女性天皇の中で唯一皇太子からの践祚、生涯独身)749-758 / 47:淳仁天皇758-764 / 48:称徳天皇(孝謙天皇の重祚)764-770 / 49:光仁天皇770-781

<平安時代>
50:桓武天皇781-806 / 51:平城天皇806-809 / 52:嵯峨天皇809-823 / 53:淳和天皇823-833 / 54:仁明天皇833-850 / 55:文徳天皇850-858 / 56:清和天皇858-876 / 57:陽成天皇876-884 / 58:光孝天皇884-887 / 59:宇多天皇887-897 / 60:醍醐天皇897-930 / 61:朱雀天皇930-946 / 62:村上天皇946-967 / 63:冷泉天皇967-969 / 64:円融天皇969-984 / 65:花山天皇984-986 / 66:一条天皇986-1011 / 67:三条天皇1011-1016 / 68:後一条天皇1016-1036 / 69:後朱雀天皇1036-1045 / 70:後冷泉天皇1045-1068 / 71:後三条天皇1068-1072 / 72:白河天皇1072-1086 / 73:堀河天皇1086-1107 / 74:鳥羽天皇1107-1123 / 75:崇徳天皇1123-1141 / 76:近衛天皇1141-1155 / 77:後白河天皇1155-1158 / 78:二条天皇1158-1165 / 79:六条天皇1165-1168 / 80:高倉天皇1168-1180 / 81:安徳天皇1180-1185

<鎌倉時代>
82:後鳥羽天皇1183-1198 / 83:土御門天皇1198-1210 / 84:順徳天皇1210-1221 / 85:仲恭天皇1221 / 86:後堀河天皇1221-1232 / 87:四条天皇1232-1242 / 88:後嵯峨天皇1242-1246 / 89:後深草天皇1246-1259 / 90:亀山天皇1259-1274 / 91:後宇多天皇1274-1287 / 92:伏見天皇1287-1298 / 93:後伏見天皇1298-1301 / 94:後二条天皇1301-1308 / 95:花園天皇1308-1318 / 96:後醍醐天皇1318-1339

<南朝>
97:後村上天皇1339-1368 / 98:長慶天皇1368-1383 /99:崇光天皇1348-1351 / (4):後亀山天皇1383-1392

<北朝>
(1):光厳天皇1331-1333 / (2):光明天皇1336-1348 / (3):崇光天皇1348-1351 / (4):後光厳天皇1352-1371 / (5):後円融天皇1371-1382 / (6)/100:後小松天皇1382-1421

<室町時代>
101:称光天皇1412-1428 / 102:後花園天皇1428-1464 / 103:後土御門天皇1464-1500 / 104:後柏原天皇1500-1526 / 105:後奈良天皇1526-1557 / 106:正親町天皇

<江戸時代>
107:後陽成天皇1586-1611 / 108:後水尾天皇1611-1629 / 109:明正天皇(第108代後水尾天皇の皇女、生涯独身)1629-1643 / 110:後光明天皇1643-1654 / 111:後西天皇1655-1663 / 112:霊元天皇1663-1687 / 113:東山天皇1687-1709 / 114:中御門天皇1709-1735 / 115:桜町天皇1735-1747 / 116:桃園天皇1747-1762 / 117:後桜町天皇(第115代桜町天皇の皇女、生涯独身)1762-1770 / 118:後桃園天皇1770-1779 / 119:光格天皇1779-1817 / 120:仁孝天皇1817-1846 / 121:孝明天皇1846-1866

<明治以降>
122:明治天皇1867-1912 / 123:大正天皇1912-1926 / 124:昭和天皇1926-1989 / 125:今上天皇1989-現在


◆資料 (2)日本史年表

参照:がんばれ凡人!


<縄文時代>
 
約1万年前から紀元前3世紀ごろまでの約8000年間。 
1万年前ごろになると、気候が暖かくなって海面が上昇し、今のような日本列島ができた。 
縄文土器(縄目の模様がないものもある。黒ずんだ色が特色) 
打製石器・磨製石器・骨角器。 
狩りや漁のくらし(弓矢の発明)、貝塚(福井県の鳥浜貝塚)が残っている。 
たて穴住居、土偶。 
青森県の三内丸山遺跡(縄文時代についての新たな発見)。 
住居の作り方や墓地が共同であったことから考えて、身分や差別はなく、貧富の差もなかった。 
  
<弥生時代> 
紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500~600年間。 
大陸から米づくりの技術が伝わる。 
静岡の登呂遺跡・・・・たて穴住居、高床式倉庫、石ぼうちょう、木製農具。 
佐賀県の吉野ケ里遺跡。 
弥生土器、青銅器、鉄器、銅鐸。 
社会の変化 → 定住生活、貧富の差、身分の差。 
「むら」から「くに」へ。
力のあるむらのかしらは、豪族となって小さなくにを支配した。

参照:弥生人はどうして日本に来たか
<人類学的考察>
① 縄文人のDNAは,現在のアイヌ人のそれと完全に一致した。アイヌ人とは,先住縄文人が追い詰められて残った人々であった(縄文人のDNAは、ロシアバイカル湖畔に今も住むブリアート人と同じであった。縄文人とはブリアート人がマンモスを追って氷結した海を渡って日本列島に移住した人々であった)
② この事実から,平安時代までいたとされる熊襲・蝦夷・粛慎と呼ばれた人達も,先住縄文人の末裔と考えてよい
→弥生人が,日本を侵略した可能性は高い

<秦の考察>
① 日本の弥生時代の始めは,中国では春秋戦国時代後期にあたる。春秋戦国時代は,紀元前770年から秦が統一する前221年まで続いた。
② 合従連衡で秦に対抗していた趙の捕虜40万人を,一夜にして坑埋めで虐殺した“長平の戦い”があったのは,前262年である。
③ 秦の人口は2000万人といわれる。これから考えると紀元前3世紀の中国全土の人口は,4000万人程度と思われる。
④ 雑穀の農耕が始まったのは前5000年の仰韶(ぎょうしょう)文化からで,秦時代には米作が広く行なわれていた
⑤ 秦時代には,三星堆や殷にみられる青銅器からさらに進んで鉄器時代となっていた。また組織化された強大な軍隊をもっていた。
→秦は偉大な文明を築いていた。また秦の統一と弥生人出現とは奇妙に一致する
(管理人感想)弥生人侵略の痕跡が発掘されたとのニュースがあった。それは残虐なもので、一人の背中に矢が何本も刺さっていた等、読んだことがある。抗埋めで虐殺する方法は、出雲に侵略してきた渡来人の残虐な統治手法と同じである。年代的に秦との戦いに敗れた大陸人(斉または楚)が弥生人だったのかもしれない。

追記:どうも縄文時代も「戦国時代」の様相であったらしい。必ずしも縄文人vs.渡来人と断定はできない。
57 奴国王が中国(後漢)に使いを送り、中国の光武帝が金印を授ける。 
107 倭の国から使者を後漢に送り、交わりを始める。 
150 このころ倭の国に大乱が起こる。 
239 邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。邪馬台国は30余国を支配。 
 
<古墳時代>
285 漢字が中国から伝わる。 
350 このころ、大和朝廷が国内をほぼ統一する。 
大和朝廷は、大王(おおきみ)(のちの天皇)を中心とした豪族の連合政権。氏と姓にもとづく政治→氏姓制度 
(古墳文化) 
各地に古墳がつくられる(前方後円墳・円墳・方墳)。大阪府堺市の仁徳陵古墳(大山古墳)は日本最大。前方後円墳は日本独特の形。埴輪。 
391 大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。 
このころ、朝鮮からの渡来人が多く、百済から織物・彫刻・陶芸などの技術が伝わる。 
421 倭王讃(仁徳天皇?)が、宋に使者を送る。 
538 百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。 
562 任那の日本府がほろぶ。
551頃 蘇我馬子生まれる
 
<飛鳥時代>
574 聖徳太子の誕生。
587 蘇我氏が物部氏を滅ぼす。豪族の争い。 
589 隋(ずい)、中国を統一。 
593 聖徳太子が推古天皇の摂政となる。 
蘇我馬子と協力して、天皇中心の政治をうちたてようとした。 
大阪に四天王寺を建てる。 
594 推古天皇が仏教を盛んにする詔を出す。 
603 冠位十二階を定める。 
家柄(氏や姓)に関係なく、能力重視の人材登用をすすめた。 
604 十七条の憲法を定める→朝廷につかえる役人の心得。 
607 小野妹子を隋に送る(遣隋使)。 
奈良に法隆寺を建てる ・・・ 飛鳥文化の代表(仏教中心の文化)
現在残っている世界最古の木造建築。
614 藤原鎌足生まれる 
618 唐、中国を統一。
622 聖徳太子が死去。
626 天智天皇生まれる 
630 遣唐使の派遣 894年までの間、10数回送られる。 
645 大化の改新
645 持統天皇生まれる
聖徳太子がなくなると、朝廷では蘇我馬子の子の蘇我蝦夷と蘇我入鹿が権勢をふるう。中大兄皇子が中臣鎌足と協力し、蘇我入鹿を殺し蘇我氏をほろぼす。中大兄皇子は皇太子となって新しい政府をつくり、政治の改革をはじめる → 公地公民の制、班田収受の法など。
659 藤原不比等生まれる
660 唐からの援軍を得て、新羅が宿年の怨敵であった百済を滅ばした。
660 山上憶良生まれる
663 白村江(はくすきえ)の戦い
新羅と唐が結んで百済を攻めたため、日本が百済を助けて朝鮮に出兵した。日本軍は敗れ、朝鮮半島から手を引き、北九州の守りをかためた。 
667 大津宮に都を移す。
668 行基生まれる。 
668 中大兄皇子が即位、天智天皇となる。
わが国最初の法典(近江令)やわが国最初の戸籍(庚午年籍)をつくる。 
671 天智天皇が死去。 
672 壬申の乱 
皇位の後継ぎ問題、弘文天皇→大海人皇子が天武天皇となる。
新羅が高句麗を滅し(668年)、百済の旧地をも併合した直後に、日本史上もっとも親新羅的であった天武王朝が始まる。
688 鑑真生まれる
694 持統天皇が飛鳥の藤原京に都を移す。
700頃 道鏡生まれる
701 大宝律令の制定。
701 聖武天皇生まれる
文武(もんむ)天皇のとき、刑部親王と藤原不比等らの編さんによる法典が完成。
701 光明皇后生まれる
708 和同開珎がつくられる。 

<奈良時代>
710 平城京に都を移す。 
元明天皇が唐の長安(今のシーアン)にならって、現在の奈良市の西に平城京をつくる。
「あをによし 奈良の都は さく花の にほふがごとく 今さかりなり」(万葉集) 
712 古事記ができる。 
稗田阿礼、太安万侶らによる日本最古の歴史書。 
713 国ごとに「風土記」の編さんを命じる(日本最古の地理書)。 
718 藤原不比等らが「養老律令」をつくる。
718頃 大伴家持生まれる
720 日本書紀ができる。 
舎人親王、太安万侶 
723 三世一身の法が出される。 
土地の開墾の奨励のため。班田制がくずれる。 
724 聖武天皇が即位する。 
729 聖武天皇が藤原不比等の娘を皇后とする(光明皇后)。 
730 奈良の興福寺に悲田院・施薬院をもうける。 
741 国分寺・国分尼寺の建設がはじまる。
737 桓武天皇生まれる
743 墾田永年私財法が出される。 
→ 律令制のくずれ、荘園の発生。 
752 東大寺の大仏ができる。天平文化がさかえる。 
多くの民衆と、僧行基の力を借りる。 
754 鑑真が来日。 
唐の高僧。6回目の船出で日本にたどり着く。
奈良に唐招提寺を建てる。 
756 東大寺の宝庫、正倉院ができる。 
聖武天皇の遺品などを保存、校倉造り。
758 坂上田村麻呂
759 万葉集ができる。 
日本で最も古い歌集、大伴家持らによって編さんされる。 
765 僧の道鏡が太政大臣禅師となり、権力をふるう。 
僧の力の台頭、政治に口出し。
767 最澄生まれる
770 道鏡が下野(しもつけ)(栃木県)に流される。 
阿倍仲麻呂が唐で客死する。
774 空海生まれる
781 桓武天皇が即位。 
784 長岡京に都を移す。

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2013年2月16日 (土)

日本書紀の信憑性 天武天皇の背景

日本書紀の信憑性

古代史の隙間を埋める作業は、どんな文献やサイトを読んでも正解はない。天武天皇が編纂を始めた日本書紀と古事記を素直に信ずれば、何の迷いもなく幸せでいられるのだけれど、その天武天皇と兄と伝えられる天智天皇の関係からして怪しい。

天武天皇が編纂を始めた古事記の成立は和銅5年(712)、日本書紀は養老4年 (720)に成立。始まりは、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにある。最終的に持統天皇の時代に日本書紀の責任監修をしたのが藤原不比等であり、皇統の正統性を強調するために捏造箇所が多いとされる。

藤原鎌足(中臣鎌足)は不比等の父親だが、本名は豊璋(百済王子)である。鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)と謀って蘇我王朝を滅ぼした。殺害の背景には、聖徳太子と側近の蘇我氏に対抗する外交対立があったと言われる。

◆王朝交代

壬申の乱について、ここでは詳細は省くが、大海人皇子(天武)が皇位簒奪できたのは、豪族達のバックアップがあったからである。中大兄皇子(天智)は、母・斉明天皇の喪中に百済からの救援に応じて白村江の
戦いをするが大敗。大海人皇子は留守を預かり、豪族達をなだめ、まとめていたようだ。
中大兄皇子は敗戦を予め覚悟しており、多大な犠牲のかわりに百済から優秀な技官らを引き連れてきた。その後この百済人脈が朝廷で力を得ていく。彼らは百済を滅ぼした新羅には恨み骨髄で、「新羅」をシンラと呼ばず、「シラギの奴ら」という蔑称の「シラギ」と呼称したという。

天武天皇が皇位簒奪したと書いたが、わずか1年在位の弘文天皇(大友皇子)と父を同じくする兄弟ではなかったことが推測される。とはいえ、国家神道史観に基づく万世一系の物語を絶対視する必要もないわけで、応神天皇の時にも王朝交代があったのではないか?と思われるので、特に問題視しようとは思わない。

そもそも神武天皇を初代にしたのも辻褄合わせと考えたほうがよいかもしれない。神武も崇神も「ハツクニシラス」として同じ諡号を持つことから、実際は崇神天皇から大和王朝が始まっているのではないかとする説もある。

最も重要なことは、天皇が祭祀長たる資格と権威を万世にわたって保持し続けている奇跡なのである。

日本書紀では天武と天智は父が舒明天皇、母が皇極天皇の実の兄弟とされている。しかし、天武天皇の生年・没年を「正統な書」であるはずの日本書紀には全く記述がない。後世の文献では年齢が逆転してしまう矛盾もある。日本書紀の天武天皇即位前紀には「天武天皇は天智天皇の同母弟」と書かれているので、おそらく異父兄弟であったろう。中大兄皇子は大海人皇子に一目置いており、息子の大友皇子を差し置いて大海人皇子に皇位を譲ろうとしたが、大海人皇子はいったんは辞退する。

◆高向王は蘇我系?

では、大海人皇子の父は誰か。
現在、歴史研究家の小林恵子氏の説が通説になっている。つまり日本書紀の斉明紀の一文「斉明天皇は、初めに用明天皇の孫高向王に嫁いで、漢皇子(あやのみこ)をお生みになった」。すなわち大海人皇子とは漢皇子のこと。

井沢元彦氏は逆説の日本史において、漢皇子の父親が高向王とされていることから、大海人皇子は壬申の乱というクーデターによって王権を簒奪したのではないかという説を唱えているが、高向王の正体がわからない。血統的に断絶したともしないとも言えない。しかし、時の運勢や豪族達の支持があったこと等を考えると、どうも蝦夷(土蜘蛛と呼ばれる国津神)の背景があったのでは?と思われて仕方ない。

驚くことに、天皇の菩提寺である泉湧寺には、天武から称徳までの天武系天皇の位牌がないそうだ。神式の祭祀からも除外されているのは、やはり・・というか、まぁそういうことなんだろう。

◆出雲王朝との関係

乙巳の変において中大兄皇子達は蘇我入鹿を卑劣な手段で首をはねた。それも元妻の皇極天皇の目の前で・・。蘇我一族は断絶したが、大海人皇子が求心力を持っていたとしたらどうか。井沢元彦氏が言うように「祟り信仰」によって、蘇我の怨念を天武天皇と全国の豪族が晴らしたとしたらどうか?いや、新羅系と百済系が場所を変えて戦ったのか?

そして蘇我と物部の皇位継承を巡る戦いもあるわけだが、いろいろすっとばして結論を書くと、物部は饒速日(ニギハヤヒ)系とされるが、ニギハヤヒは物部よりずっと以前から存在する王で、神武天皇と戦ったくだりは出雲の国譲り物語とそっくりである。その後大和王朝に従ったのが内物部、全国に散ったのが外物部。では蘇我氏は?蘇我氏こそ出雲を開いたスサノオにまつわる人物であった。

『日本書紀』 は明らかに出雲の神々を「鬼」とみなしている。
 それだけではない。
 大己貴命の幸魂は大物主神といい、出雲からヤマトに移され三輪山(奈良県櫻井市)で祀られるが、大物主神はヤマト朝廷がもっとも丁重に祭った神であった。いわば、ヤマトにおける出雲神の代表格であり、その大物主神の 「物」 が 「鬼」 の 「モノ」 であるところが重要である。(奈良時代以前、「鬼」は「オニ」とは読まずに「モノ」といっていた)。 (p.150)
 なぜ蘇我入鹿が出雲神スサノオとかかわりを持っていたのだろう。スサノオの祀る出雲大社の真裏の摂社が「素鵞(そが)社」と呼ばれていたのはなぜだろう。  (p.233)
スサノオは牛頭天王と同一とされ、ユダヤの過ぎ越しの祭りとそっくりな「蘇民将来」という札を掲げる行事がある。祇園祭として有名。伊勢白山道によると、モーゼはスサノオの第九格の霊格だそうだ。蘇民の「蘇」は蘇我の民を表すという説もあったりする。蘇我氏の出自はわからないが、出雲王朝との強い因縁をうかがわせるものである。

◆宿題

以上は思いつくままに書いてしまったが、順序立てて項目別にまとめるには、まだまだ謎が多すぎる。少しずつ思いつくままに書いていこうと思う。

とりあえず気になっている事柄。
1,任那日本府について(古代の都市形態)
2,大王(おおきみ)はどこから来たか。
3,魏志倭人伝
4,5人の倭王
5,和風諡号から解く大王の出自
6,出雲王朝、道教、高句麗の関係性
7,天照大神とは
8,国津神と天津神の融合
9,古代ユダヤ、渡来人との融合

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2013年2月12日 (火)

脱亜入欧論とは、今の日本人にも向けられたメッセージ

ねずさんのひとりごと 福沢諭吉「脱亜論」

ねずさん流の現代語訳ということですが、とても読みやすいので、メモさせていただきます。
私の感想は、ねずさんとはちょっと違っていて、ポイントは日本人自身もまた「変わっていない」ということです。
特にこの段落について

まして西洋文明となれば、それは西欧社会に利益をもたらすものなのですから、侵攻を止めるのは至難のわざです。
であるならば、西欧文明の侵入そのものを「防ぐ」というのではなく、むしろ私達自身が体力をつけて、これに負けない国になるしかありません。

体力とは軍備増強、核武装のことではありません。すでに経済力という体力はあるのです。自由貿易にしても、トータルでいえば日本は世界一関税の低い国。TPPの交渉力もない惨めな国ですか?ISD条項を巨大なお化けにしたのは一部のネット政治活動家ではないですか?TPP反対論で突如表に出てきた人もいましたね。実際はこちらを読んでもらえばわかります。


敗戦後、列島は米ソ中に分割されることはありませんでした。かなり危なかった。そして西洋文明の怒濤の流入を受け入れながら、伝統を守ってきました。すでに「負けない国」に成長したではないですか?
それなのに外交決着ついた敗戦処理をいつまで引きずっているのか。河野洋平が訪韓するらしいですが、コミュニストの仕掛けたプロパガンダをいつまで後生大事に「政治的信念」としているのか。そういう政治家を 売国奴 と呼びます。

戦争には負けてしまったけれど、今後「負けない国」になるために、調整型の官僚主義をやめて、本当の意味で政治主導をしていかなければなりません。安倍総理に期待しましょう。今ほど国民からのバックアップが必要な時はありません。

保守の人達は、米国にトラウマがあるのはわかるけれど、今も日本を植民地化しているという 被害妄想 はやめませんか。ぐるっと回れば反米左翼と大差ありません。保護主義・統制経済に走り出すでしょう。「米国の言いなりはやめましょう」とスローガンを掲げているのは共産党ですが、日本だって言うなれば経済的覇権主義です。日米は国益vs.国益、それ以上でもそれ以下でもありません。

「誇りある日本」と精神論を言う前に、失敗した轍を踏まないために外交力を身につけてください。情報戦も、米国から見たら日本は丸裸同然ですってよ。スパイ防止法もない国ですからね。米国に守ってもらっておいて、言いなりはやめよう、、ってね・・・。「毅然」とか「侍」とかもういいです。気合いを入れる人ほど弱っちぃものです。本当の実力者はとても静か。受け身です。外交はもっともっと泥臭く、地を這うような地道な人脈作りから。麻生氏はその辺をよく心得ていらっしゃる。北方領土交渉も麻生さんに任せたらどうでしょうか。

交渉力のなさを棚に上げて、柳に揺れる幽霊を怖がるのはやめましょう。そんなことでFTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)はどうするんですか。

(以下、ねずさんのひとりごとより)

《脱亜論》
 時事新報 社説
 明治18(1885)年3月16日

世界の交通はめまぐるしく進化して、西洋文明の風はついに東アジアにもやってきました。
いまや草木さえもこの風の影響を受けています。

西洋人であっても東洋人であっても、人間であることには、なんら変わりはありません。
けれど昨今、西洋人の影響力と行動力がいちじるしく大きくなってきたのは、ひとえに交通の便が発達したことによります。

西洋文明が東進してくるのに対して、これを防ごうと思うなら、まず大切なのは「覚悟」です。
そして覚悟を定めて、世界の現実をよく見て、世界で何が起きているのか、現実をよく確認しなければなりません。

文明というのは、いわば麻疹(はしか)のような伝染病に似ています。
いま東京で起きている伝染病は、もともとは西国の長崎で流行ったものかもしれないけれど、いつの間にか東進して、春のあたたかさとともに東京にまでひろがりました。

伝染病がはじまったとき、それが広がってから病を防ごうとしても、手段はありません。
有害なだけで何のとくにもならない流行病でも、それがひとたび始まれば、その勢いを防ぐことはできないのです。

まして西洋文明となれば、それは西欧社会に利益をもたらすものなのですから、侵攻を止めるのは至難のわざです。
であるならば、西欧文明の侵入そのものを「防ぐ」というのではなく、むしろ私達自身が体力をつけて、これに負けない国になるしかありません。
それが智者の選択と行うべきものです。

そもそも西洋文明がわが国にはいってきたのは、江戸時代のことです。
嘉永年間に黒船がやってきて、多くの人たちがその脅威を前に、日本が強くならなければならぬと心に誓いました。
けれどそれをさせまいと進歩の前に横たわったのが徳川幕府でした。

日本が近代化して西欧と対等につきあえる国となるか、それとも幕府を中心とした旧体制を維持するか。
その二者択一を迫られたときわが国は、「国を重んじ政府を軽し」とする大義に基づいて行動し、ご皇室という神聖かつ尊厳ある存在とともに、もはや老害以外の何ものでもなくなった旧幕府を倒し、新政府を打ち立てることを選択をしました。
日本は、国中、身分の別なく、西洋文明に追いついて行こうという体制を打ち立てたのです。

そうすることでわが国は、次々と植民地支配されて行くアジア諸国の中にあって、唯一、国家として、民族として独立自尊を保ち、生き残るための新たな基軸を打ち立て、近代国家を形成することに成功しています。

ではその日本が行った選択とは何であったのか。
それこそが、まさに「脱亜」の二字でした。

日本は、アジアの最東端にある国です。
しかしその日本国民の精神は、すでにアジア的老害を脱して、西洋文明にちかづきつつあります。
すなわち、日本は西欧諸国とあい並ぶ独立国家としての道を進みはじめているわけです。

ところが、その日本には、実はたいへんな不幸があります。
なにかというと、支那、朝鮮です。

この二国も、もともとは日本と同じくアジア流の政教風俗をもっている国です。
ところが人種の違いなのか、教育の差なのか、支那朝鮮と、日本との文化的な隔たりは、あまりにも大きいものです。

情報がこれほど速く行き来する時代なのです。
西欧的近代文明や、国際法についての知識は、彼らにだって当然もたらされているはずです。
にもかかわらず支那朝鮮の二国は、まったく変わろうという気がありません。
変わろうとしないだけでなく、まるっきり百千年の昔のままの姿で居続けようとしています。

文明が、まさに日進月歩で進化している現代にありながら、この両国は教育といえば二千年も昔の儒教を言い、学校教育では仁義礼智といい、一から十まで外見を飾りたてることだけを大事にして、中味は、まるで空っぽの脳みそしかもちあわせていません。

アホにはアホの可愛らしさというものが、普通ならあるけれど、この二国に関しては道徳心などかけらほどもなく、その残酷さは破廉恥をきわめています。
それでいながら、態度だけは傲慢そのもので、いかに他国や他人に迷惑をかけても、自省の色なんて毛ほどもありません。
私に言わせれば、この西欧文明の東進という脅威に対し、この二国が独立を維持し続けるなどというのは、およそ不可能なことです。

もし支那朝鮮の二国に、幸いにも救国の志士が現れて、わが国の明治維新のような政治改革を実現し、政治をあらためて人心の一新ができれば、話は別ですが、そうでなければ支那朝鮮の二国は、いまから数年を経ずして亡国の道をたどり、その国土は世界の文明諸国によって分割、分断されてしまうことは、火を見るよりあきらかなことです。

なぜなら、伝染病にも等しい西洋文明の侵攻にあいながら、支那韓国の両国は、その伝染するという自然の摂理にそむいて、無理にこれを避けようとして、旧来の陋習(ろうしゅう)という一室にひきこもっているだけだからです。
そんなことをして、部屋の空気を遮断すれば、そのうち窒息して死んでしまうのはあたりまえのことです。

「春秋左氏伝」に「唇歯輔車(しんしほしゃ)」という言葉があります。この言葉は、「輔車」が頬骨ほおぼねと下あごの骨、「唇歯」がくちびると歯で、隣国同志が互いに助け合うことをいいます。
けれど、いまの支那朝鮮は、日本のために毛筋一本の値打ちもありません(一毫の援助と為らざる)。

そればかりか、ややこしいことに、この日支朝の三国が地理的に近いがゆえに、欧米人から同一視されかねません。
つまり、支那や朝鮮の不出来な振る舞いをもって、あたかも日本も同じだと思われてしまいかねない危険性さえも持っているのです。

たとえば、支那朝鮮が古い専制君主独裁体制で、法治の観念を持たない国であれば、西洋人は、日本もまた、ああ無法律の国かとみなしてしまいます。
支那人や朝鮮人が理屈にならない手前勝手な屁理屈ばかり並べ立てれば、ああ日本人も屁理屈をこねくりまわしている、訳のわからない国だと思われます。
あるいは支那朝鮮人が、西欧の武力に恥かしげもなく屈して卑屈な態度をとっていれば、ああ日本も同じ卑屈な習俗の国だとしか思われません。
また、朝鮮の刑罰に、およそ人に行うには酷すぎる残虐な刑罰があれば、日本も同様に残虐非道な国だと疑われてしまう。

こんな例をあげれば、それこそ枚挙にいとまがありません
ようするにひとつの村の住人のほとんどが、愚かで無法で残忍で無情ならば、たとえその村の中にまっとうな一家があったとしても、村の外の人々からみれば、どっちもどっちにしか見えないというのと同じことなのです。

そしてその影響はすでに随所にあらわれていて、わが国の外交に少なからぬ影響を与えています。
これこそ、我が日本の一大不幸というべきことです。

もはや日本に、支那や朝鮮が開明して国際常識を身につける日を待っているような余裕はありません。
むしろ、支那や朝鮮とは早々に縁を切って、西欧諸国と進退を共にすべきです。

そして、支那朝鮮と接するときには、いちいち「隣国だから」といって格別の配慮など、もやはする必要などさらさらありません。
支那朝鮮に対しては、西欧諸国が両国に接するのとまったく同様に、相手を人の住む国とさえ思わず、厳しく対処すればよろしい。

悪友と仲良くする者は、共に悪名をまぬがれないものです。
私は、心において、もはやアジア東方の悪友である支那朝鮮とは、絶交を宣言するものです。
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2013年2月11日 (月)

財金分離を逆手にとって日銀支配を続ける財務省

財金分離について、民主党は基本的に理解していない。マクロ経済を財務省御用聞き議員に任せていたら大変なことになる。野田前総理の唯一の功績は、皮肉なことだが、日本経済のきわどい瀬戸際で総選挙に突入してくれたことだ。そして日本にとってラッキーだったのは、石破氏ではなく安倍氏が自民党総裁選に勝ち、総理大臣になったこと。私としては経済・財政・金融政策をすべてみんなの党に任せたいところだが、致し方ない。

時事通信 2月9日(土)15時49分配信

 民主党の細野豪志幹事長は9日、静岡市内で講演し、日銀総裁人事について「アベノミクス(安倍晋三首相の経済政策)の本質は日銀に政府が強い圧力をかけることだ。そのときに国債購入をこれ以上増やすことはできないと判断できる総裁を選ばないと、財政や金融が深刻な状況に陥る可能性がある」と指摘し、日銀の独立性を担保できる人物が望ましいとの考えを強調した。

日銀に政府が強い圧力をかける」とは、「日銀の独立性を脅かす」という意味だろう。「国債購入をこれ以上増やすことはできないと判断できる総裁を選ばないと、財政や金融が深刻な状況に陥る可能性がある」とは、金融緩和による日銀のバランスシートを心配しているわけだ。民主党がどちらを向いて仕事をしているか、この短いコメントの中から読み取れる。

そもそも日銀の独立性が金融緩和の歯止めの言い訳に使われることが間違っている。経済政策は財金一体のものだから、目的を政府と日銀が共有するのは当たり前のこと。デフレで金融緩和するべきなのは、いろはの「い」。小泉-安倍政権で緩和策を採ったが、すぐ引き締めてしまい、再び長いデフレ-円高に悩まされることになる。



日銀の独立性を担保することとなった財金分離とは一体何だったのか。
コトバンク「財金分離

国の金融当局が、財政当局からの独立性を保ちながら金融政策を行うべきだとする考え方。政府や財政当局は、税収増や景気浮揚を目指してインフレを許容する政策を採用しがちだが、中央銀行はそうした圧力の影響を受けることなく物価の安定や信用秩序の維持を目指すべきだとされる。日本では、平成10年(1998)に改正日銀法が施行され、内閣による日銀総裁の解任権がなくなり、当時の財政当局である大蔵省(現、財務省)から金融監督庁(現、金融庁)が分離した。

そのきっかけはノーパンしゃぶしゃぶ接待に見られるように、監督官庁の大蔵省官僚と銀行側との癒着にあった。そこで金融監督は別組織にすべきだというのが始まりだった。護送船団行政からの決別である。金融庁が分離して、その後、反動で監査が厳しすぎるという批判もあった。

橋本行革に補佐官として携わった江田憲司氏の説明
まず、マクロ経済を知らない大蔵官僚が「金融機関を許認可でガチガチに縛り、その箸の上げ下ろしにまで口を出していた
金融界の隠蔽体質(不良債権を積み上げた背景)を放置できず、スキャンダルを追い風に改革に着手した。
ところが、「財政と金融が分離されるなら『テロをも辞さない』とする、当時の大蔵省幹部の発言が報道されたことがあった」。北海道拓殖銀行や山一証券が連鎖破たんしたこと等、大蔵省の思惑どおりのパニックが起きたものの、小渕内閣で改正日銀法が成立した。

しかし、財金一体のマクロ政策と金融監督としての独立性が一緒くたにされて議論されるのは、はなはだ不可解である。第一、日銀の独立性と言うなら、日銀総裁のポストはなぜ財務省と日銀の持ち回りだったのか。財務省は形は「分離」と言いながら、ちゃっかり日銀の首根っこを押さえている。「独立性」と言う場合、諸外国同様の「手段の独立性」だけ。

財務省は、独立性を逆手にとって、実質的に日銀を縄張りとし、国債買取りに歯止めをかけ、インフレにならないように目を光らせる。そして子飼いのオオカミ少年に「国債暴落するぞ」「ハイパーインフレ来るぞ」と叫ばせているわけだ。

「失われた20年」を取り戻すために、この「財務省独裁」をもう一度改革しなければならない。ゆえにみんなの党が率先して、日銀に目標達成の責任を持たせる体制を作ろうとしている。新たな日銀法改正が必要な理由である。

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2013年2月10日 (日)

国魂が発動するのは私達次第

神話の世界にはまっています。想像を巡らせていろんなサイトを訪ねています。余計混乱するけれど、独自のフィルター(独断と偏見)で取捨選択すると、ダイナミックに見えてくるものがあります。

ネットのおかげで伊勢白山道に縁を持つことができ、本当の信仰とは何か、ずっと求めていた答えが明確になりました。神道の「大自然への感謝」の中にこそ本質があったのですね。以前は、神道は教義もないし、皆、御利益欲しさに祈願に行く所というイメージしかありませんでした。それに物の怪というか、怖いモノがいそうで・・(^_^; 昔、両親が神棚を祭ったその夜、母と私が同時刻に高熱を出し、「あーあ、触らぬものに(略)」なんて思っていました。

今は、私の中の心の聖域(内在神)を鏡として、お祭りを通して八百万の神々に感謝する日々です。日の本の国の歴史を紡いでくださり、生かして頂いてありがとうございます。

個人的にキリスト教が一番次元が高いと信じていた時期がありました。が、何か違う・・・。理由がわかりました。神と個人の契約では、堕落(いわゆる内在神が隠れた状態)人間が直接神につながる道がないのです。十字架に張り付けのイエス・キリストを仰ぎ見て救われますか?絶対無理です。仲介者を通した他力信仰では、「すでに悟っている魂」であることを思い出すことが難しい。
守護してくださる精霊(天使)とは、ご先祖様でした。正神は関与できません。魂の成長のために起こるさまざまな試練は、私達が努力するべきことであり、小さな御利益に正神が関与することは許されていないということです。まして奇異なこと(霊言)をして集金する組織には、一切関わってはいけません。

人生の道は、ご先祖様への思いやりなくして魂の成長はありません。見えないご先祖様に思いやりを持てる人は、家族や周囲の人々にも思いやりを持てる人でしょう。この時代に今一度神仏習合を自分の中で成し遂げるわけです。


キリスト教では三位一体といいますが、神道では父の格位は天之御中主神、母の格位は天照太神(おほみかみ)=太陽神、子は天照と地球霊・国常立大神から分霊を頂いた先祖&私達です。



重要なことは、現在、天津神と国津神の融合が進み、太古に封じ込まれた白山王朝の埋没神が発動する時期であるということです。
埋没神とは、伊勢白山道によると、白山神=国魂=国常立太神=埋没神=スサノオ+祓戸4神 であるそうです。どうのように発動していくのか、龍のご神体の上に住まう私達の心がけ次第なのでしょうね。
日本各地の氏神様は、祭神とは別に実際は土着の精霊が鎮まっているそうです。崇敬する地域の家の神棚に巡回してくださるとのこと。榊と水を使って穢れを祓ってくださるんですって。へぇ~~。(たしかに右側の榊の葉が落ちるのが早いです)

目に見えない、聞こえない、効果が見えない、ただただ神様とご先祖様に感謝したい、その心が尊いのですね。怖い・・と思う人は、まだその段階にないそうです。「霊界なんかない」と言う人は、ご縁がなかったということで。

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2013年2月 9日 (土)

日銀総裁に岩田規久男教授を!

白川日銀総裁が任期前倒ししてくれたおかげで、インフレ期待率がさらに上がる。みんなの党は次期総裁候補として、中原伸之・元日銀審議委員(78)、浜田宏一・エール大教授(77)、岩田規久男・元学習院大学教授(70)、竹中平蔵・慶大教授(61)、そして高橋洋一嘉悦大学教授(57)が適任と安倍総理に伝えた。

名前の挙がった5名のうち、本命は誰か。それはもう決まっている。竹中氏や高橋氏は受けるわけがない。浜田先生や中原氏は年齢的な問題がある。つまり岩田規久男先生が本星☆

安倍総理も納得する候補だろう。しかし、足を引っ張るのが麻生太郎財務相・・・。高橋洋一氏がTVタックルで「安倍さんのやろうとすることを麻生さんが拒否権発動している」と言っていたが、麻生氏は元来金融政策には否定的。彼の一番の間違いは、財政出動だけで景気回復できると信じていること。麻生総理の時に与謝野氏を経済担当させて失敗したことにいい加減気づいてほしい。変に自信を持ってしまっているので本当に始末が悪い。まあ、麻生氏に限ったことではないけれど。

日銀総裁人事案に邪魔をするのが民主党だが、みんな・維新と連携して強力に発信していけば、民主党参院も同意せざるを得なくなる。いや~輿石なんぞが仕切っているから無理か。

江田幹事長が予算委員会において、杉本元財務事務次官を公正取引委員会の委員長に起用する人事案について、財務省出身者はふさわしくないと異議を申し立てていた。郵政社長についてもまったくその通りで、日銀もしかり。
財務省は地銀にも天下っている。日銀ネットワークは債券市場の守護者であり、既得権化している。インフレ傾向は避けたい。歴代財務省出身者も日銀出身の白川も、国民の内需拡大なんて考えちゃいないのだ。

みんなの党メルマガより 渡辺代表
みんなの党は、財務省次官OBの天下りによる日銀総裁人事には反対している。なぜダメなのかと言えば、財務省は統制型システムの利権を守りたいがために日銀総裁にOBを天下りさせているからである。まず、「日銀ネット」に入っている全ての金融機関に資金供給や考査を通じてにらみが効く。
地銀などは財務官僚の有力天下りポストである。次に、日銀がこれまでの政策を転換し、大胆な金融政策を実施するようになると、為替は財務省による為替介入ではなく金融政策で決まるということがはっきりする。そうなれば、外国為替資金特別会計は不要であるということになってしまう。

デフレ大好きなネットワークが浮かび上がってくる。
そこに岩田規久男氏が日銀総裁になれば、日銀界隈は暴風雨となるだろう。円の信任ガー独立性ガーハイパーインフレガーetc.
しかし、彼らのアンチリフレ論がいかに的外れであったか、誰が日本の景気の足を引っ張っていたのかが早晩わかってくる。

週刊文春インタビュー
岩田規久男教授が本誌に断言「日銀総裁の覚悟ある」

-ハイパーインフレにつながりかねないという批判があるが
岩田氏「乱暴な言葉になってしまいますが、馬鹿も休み休みいって欲しい。そういう議論はもう、二十年も前からずっとやってきた。(略)正直言って私は怒っていますよ。長い間同じ事を言い続けてきて、それでもまだ議論をしなければならないのか。今は経済論争の最終決着の時なんです。
デフレ派に聞きたい。バブル以降のデフレで、財政は再建できたのですか?景気はよくなったのですか?株価は上がったのですか?十五年間の壮大な『デフレ経済実験』の結果はすでに明確に出ている。デフレでは、駄目なんです」

-岩田氏の「公約」
岩田氏「今後二年間でマネタリーベースを四十~五十兆円増やすことで二%のインフレを起こします。私のシミュレーションでは『二%のインフレと三%の名目成長率』を達成できれば財政も相当改善できます。諸外国の平均はインフレ率が二~三%、成長率は四%程度ですから、驚くような目標ではありません。現在の日本の名目GDPは470兆円程度です。実は1994年当時よりも悪いんです」

こういう当たり前の話がようやく認知されてきた。
おととしくらいまで、「日本は少子高齢化で経済は縮小するのが当たり前」、「デフレは良いこと」、こんな亡国論が幅を効かせていた。
失われた20年を安倍政権+みんなの党で取り戻さなければならない。

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2013年2月 5日 (火)

足長神社、手長神社

私は国津神、特に出雲国から諏訪地方に勢力圏を築いた第二出雲王朝に心惹かれるものがあります。私の地元は大国主命を祀る神社が多いです。

諏訪地方では、建御名方命以前の太古の薫りを神社に感じることがあります。諏訪大社も本殿がなく、お山(古墳)を聖域として拝する形式であり、御柱を神の寄り代とするなど、原始宗教の継承を伺わせます。国家神道の決めた御祭神ではなく、地元の人達はミシャグジ様(土地の精霊)として信仰しています。

先日、諏訪市の足長神社、手長神社に参拝しました。戔嗚尊の妻・櫛稲田姫の父・母が御祭神ですが、まぁ、はっきりとはわかりません。手長神社上方には茶臼山古墳群、手長丘遺跡が発掘され、縄文時代の太古の空気を感じることができます。手長神社には多くの摂社・末社が鎮まり、白山宮もありました。

足長神社は小さな村の産土様という感じですが、拝殿、神楽殿の彫刻が素晴らしかったです。拝殿は天保13年(1842)、舞屋は文久2年(1862)建造。

足長神社(写真は本殿正面から撮ってはいけないそうです。木に触ってもだめ)

Asinagajinja

手長神社(写真をwikipediaより拝借)

Atenagajinja

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2013年2月 3日 (日)

HTC J バタフライに機種替えしました。

スマートフォン機種替え3台目、バタフライゲット!
国産京セラのDIGNOも良い機種でしたが、カメラがどうにもこうにも・・。まあ携帯にそこまで期待するのも何ですが、デジカメ持ち歩くほどの趣味はなし、かといって観光地ではそれなりに記録を残したい、ということで、カメラにこだわったというHTC J butterflyに決めました。
スペックも文句なし。

結論。スペックだけで選ぶと失敗する。
DIGNOを選ぶ時も、ア○ーズvs.DIGNOのユーザー同士でそれはそれは大騒ぎ。ここだけの話、ア○ーズZが見かけ倒しとわかった時点で、一部が荒らしと化してDIGたんのネガキャンを始めました。そりゃあシングルコアだし、有機ELで画面が青っぽいだの、スペックは今ひとつだったけれど、使いやすさと安定感でディグたんの勝ち~☆
台湾のHTCはグローバル展開の実績と評判も上々。最新機種Jバタフライは機能充実、トラブルもなし。カメラもかなりイイ。ただフラッシュ撮影が近影でも遠景でも光が不自然に入ってしまうなぁ。
パノラマ撮影も出来ちゃう。でも、まだどうやって撮るのかわかんない(;゚ロ゚)何度やっても失敗するのだ。誰かおせーて・・・。



通信速度が超高速と言われる4G LTEが僻地(我が家)で入るのか?wimaxなんて使い物にならなかったし・・と心配したが、入った~\(^o^)/基本3Gが入る所では大丈夫らしい。速い速い。3Gが「んーーー」という表示間隔でしたが、LTEだと「んっ」って感じ。(数値調べるの面倒)
電池持ちもネットサーフィンなら7~8時間くらいもちそう。DIGNOの時は3~4時間でした。

ホームアプリは引き続きGOランチャーEXで決まり。メモリ解放も3タップで超簡単。タスクマネージャーだと計算・表示に時間がかかってちょっとストレス。バッテリーミックスは容量食うし、必要ないですね。

そんな感じで、環境整備もバッチリ。SDカードも今度は16ギガあるので、アプリも好きなだけダウンロードしてお楽しみ中。自分好みに弄くり倒して、1回だけフリーズ。この機種は背面の蓋がなくて、バッテリーを取り出せないのでリセットをどうやるのかなぁ?とわからなかったけれど、フリーズした時、あれ?あれ?あれ~~?と自分も固まったまま偶然電源ボタンを押し続けたら、それがリセット方法の正解でした。13秒押し続けるとのこと。


画面が5インチ
で、手の小さい私にはちょっと扱い辛い感じもなくもないけれど、ほ~んと見やすくてキレイ☆



画面キャプチャー
は「電源ボタン」と「音量ボタン-」の同時押し。これは使えそう。
ブログもスマホから気楽に出来る・・んだけど、ついつい2chのスマホ板とか壁紙スレとかオカルト板とか、寄り道が多いのはちっとも変わらないのでした。きれいな壁紙ギャラリーをスライドで眺めるのが至福の時。

それよりディグたんもおうちではwifiで今まで同様使えるんだけど、ベッドのお供は小さいサイズのディグたんにしようかしら。見栄えの良い恋人は昼間連れ歩くのにピッタリ。

それから、機種替えの一番大きな動機だったのが、ブラウザのブックマーク同期をPCとスマートフォン(ミニPCも持ってる)で共有したかったこと。operaでも同期できていたんだけれど、パソコンのoperaでは、Twitterとの共有が拡張機能でも不十分だったので、どうしてもgoogle chromeでやりたかったわけです。chromeが搭載されるのはAndroid4以上だったので、へそくりはたいて乗り換えちゃった。しかし、高いよ・・・。ポイント使っても7万2千円でした。今度こそ2年は使おう!


あっ、一つだけ不満があります。
DIGNOはスクロールがぬるぬるサクサク、上から下まですい~っと気持ちよかったんですが、蝶たんはギシギシカクカク、気持ちよくない。スクロールしようと触っただけでweb上のテキストがブヨーンと大きくなったり小さくなったりします。
古女房のほうはくたびれていても馴染んでいるというか、ね。やっぱりベッドの中で弄るには可愛いディグたんにしよう。

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2013年2月 1日 (金)

まずはここから。「新しい心の世界観」

結局は、集金をするために奇異な体験を一般人にさせる「必要があった」だけのことなのです。
現実を離れるのを良しとする時代は、もう終わりました。
奇異を支える霊的世界も、埋没神(まいぼつしん:人間に感知されない正神)により淘汰されて崩壊しています。
昭和の奇異以上の本当の奇異と、正しい現実の両方を知る伊勢白山道が、それらの古い幽界残像から新しい心の世界観を提示することが重要な任務の1つなのです。


伊勢白山道が何よりすごいのは、実践方法が誰にでも簡単に出来、効果絶大なことです。ただし誰にでも出来るかといえば、神に自分の幸せを「お願い」することはできても、先祖への思いやりがなければ一日とて続かないゆえに、決して簡単ではないかもしれません。

神を信じることができるのに先祖を放っておいて、何が信仰でしょうか。また先祖供養しているつもりでも、教祖依存になっている時点で、垢付け行為になってしまっているという驚愕の事実・・・。自身のオリジナル磁気を守るために最も大事なことは、一切の宗教団体から離れること。しかし、真理を求める人ほど宗教を求めるので、組織の罠(教団維持霊)の餌食になっている残念な状況があります。

江戸時代は幽界全盛の頃で、物の怪が隣り合わせにいました。時代の波動が精妙さを増していくに連れ、幽界は消滅し、いずれ霊界も現実界に吸収されていく、と。今、統合の真っ最中なので、現実界と霊界の境界線が曖昧になり、両者が渾然と影響し合っているようです。
現実に生きている人間が主体なので、私達がしっかりしていなければ、その「思い」に乗って、一瞬のうちに同じ「思い」の霊に憑依されてしまいます。自分もわからず、悪い感情が増幅してしまうのは、そういう理由があったのですね。神の波動の感謝心で自身の霊体を感謝のコーティングをしていれば、神界の揺りかごに守られるでしょう。宇宙から降り注ぐ悪い電磁波も素通りしてくれるそうです。


新しい心の世界観
とは、心に預かった内在神を育てることが人生の目的であるということです。創造神は人間に自由を与えすぎたようです。人間は自ら良心をふさぎ、悪いことがあると神のせいにし、どこまでも自己中心でした。正神を「埋没神」としてしまったのは、人間自身でした。

落ちていく人間を悲しみながら、それでも神様ご自身は「感謝している存在」でした。なぜならずーっと気の遠くなるような時を過ごす孤独の神だったからです。愛する対象があって初めて創造が起こるのですね。神は祈願する対象ではなく、共に感謝し合う存在でした。
日本は世界の雛型なので、まだ大きな試練があるでしょう。

反日国家はかなり厳しい状況になっていきます。私達は母性の国の使命として、彼らをもかき抱く愛情が問われているのかもしれません。同調したら日本も終わってしまいます。一蓮托生だけは避けなければ・・・。その方法は、怒るのではなく、背後の霊界を慰めることだったのです。供養は簡単です。一人でも多くの日本人が「朝鮮のために尽くしてくださった日本人の方々、朝鮮の方々、生かして頂いて ありがとう御座位ます」と心を合わせることだけです。もしそれでもだめなら、自分の良心が自分を裁くことになるでしょう。国も同じだと思います。


◆◆


一応、以上のことを踏まえて努力している最中なんですけれど。自虐史観に騙されていた怒りの時期はとっくに超えて、そのうち反日国家への嘲笑に変わり、今は怒ってはいても自分の心を傷つけるまで頭に血が上ることはなくなったように思います。まぁ、特亜に怒りをぶつけるのは、ストレス発散の意味もありますが。


2007年から2012年前半まですごくしんどい期間で、介護疲れもあって、じわじわ積もっていたストレスがピークに達し、心と体が分離しているような感じでした。歩くとふ~らふ~ら。脳のCTスキャンまでしましたが異常なし。一年中風邪の症状がきつくて葛根湯を飲み続けなければ息が苦しい。ちょっとした怒りでパニックになり、自傷行為もしました。それがあっけなく治ったのは、先祖供養を始めた時と重なります。


ケアマネさんが無理矢理年寄りを引き離してくれたのが一番助けられました。それは偶然でしょうか。もっと体調が酷くなっていても不思議ではなかった。その頃、年寄りの目が怖くて怖くて、サングラスをかけて「まだ頑張りますので大丈夫です」と言っていたんですけどね。やはりちょっと傍目から見てもおかしかった・・・。同時期に乳酸菌やら良いサプリと出会ったのもお導きと思います。

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