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2010年7月

2010年7月28日 (水)

みんなの党・日銀法改正案

ブログが月刊誌になってしまわないうちに復活!
気がつけば参院選挙も終わり、みんなの党が躍進していた。できれば「大」がつくほど躍進してほしかったが、「6~7議席とれればいいほうだろう」という観測も多かったので、まずはほっとしている。

渡辺喜美代表は今のところ視聴率男で、選挙後は引っ張りだこだった。テレビ的にウケるのは、はっきりものを言う、ごまかしがない、アンチ民主党の挑発的な言動が目をひくといったところだろう。

ヨッシーは日銀法改正についても折に触れて発言しているが、司会者などは勉強していないので、つっこむことができないし、評価ができない。私もそのへんは「さらっと流してほしい」と少しハラハラしている部分はあるのだが・・・。ハラハラするのは、日銀法改正案に異論があるからではなく、「どうせリフレ批判派からみんなの党へのバッシングが起こるに決まっている。うんざりだなぁ」という脱力感。たしかにヨッシーの需給ギャップ論は単純すぎる面もあるのだけれど。

今の経済状況を危機と見るか、危機から脱したと見るか、財政再建の余裕があるか、増税の余地はあるか、その見方によって金融対策の意味も違ってくる。

私は“待ったなしの危機”が続いていると見る。根本治療の構造改革が停滞どころか逆行しているので、日本経済はもっと悪くなる。円高も放置されている。小泉政権の時のような、ブッシュとの信頼関係に立つ円安誘導をしろとは言わない。しかし、はっきり言えるのは、今の円高は、円が実力以上に高い、つまり日本の影響力が落ちていることをいいことに海外でドル安、ユーロ安誘導、円買いが加速している面があるのである。
下手をするともっと円は上がる。「円が上がるのは円が強いということだから良いことだ」なんて呑気なことを言っている場合ではない。「悪い円高」である。

渡辺喜美氏は、麻生政権下でリーマンショック後から言い続けていることがある。要旨は「政府は小さくていい。しかし国家が緊急事態の時-防衛でも経済でも-、政府は勇気をもって大きな介入をすべき

一刻の対処の遅れが命取りになる。国防や災害、経済でも同じである。市場の原理はいったん脇に置いても統制することはあり得るという趣旨である。当たり前のことではないだろうか。

これでは景気対策優先の国民新党と同じ?冗談じゃない、亀はそれに乗じて、破綻した自民党モデルに逆行しようと力ずくで突破しようとしている。慢性的な国債バラマキ政策はストップしなければならない。あくまでケインズ先生は「緊急時」における財政出動を説いたのである。

このままでは日本経済はもたない、緊急の場合はケチケチせずに財政出動しろ、しかしそれも限界に近づいた、日銀は自分とこのバランスシートの毀損ばかり心配しているんじゃない、債権買い取りしろ、市場にカネを供給しろ、ということである。効く効かないの神学論争は研究室でやってもらって、政府・日銀は、やれることはスピード感をもってやらねばならない。

思い出してほしい、麻生首相が党内で批判されるきっかけは何だったか。「中小企業は年末を越せない」と言っていたにもかかわらず、景気対策を政局がらみで年明けに持ち越したからだ。「景気対策をなぜ早く国会提出しないのか!!」と自民党改革派が麻生首相に申し入れを行った。景気対策はスピードが命。

さて、そこでみんなの党の日銀法改正案を見てみよう。

みんなの党・日銀法改正案の概要

ウォール・ストリート・ジャーナルは14日、みんなの党が国会提出を予定している日銀法改正案の概要を入手した。政府・日銀の政策協定や、金融機関が保有する中小企業向け債権を日銀が買い取る措置などを規定している。
*****
日本銀行法の一部を改正する法律案(仮称)について

(全文はリンク先でどうぞ)

(一部抜粋)

①政府と日本銀行が協力して達成すべき経済政策の目標に係る協定を締結することを通じて両者の経済政策における役割分担と責任の範囲の明確化を図る

政府と中央銀行は、政策目標は共有しつつ手段は独立しているというのは先進国の常識である。しかし日本では、現在、目標まで独立しているかのような日銀内のコンセンサス醸成を許している。大新聞はそれに追従。
小泉政権では政府・日銀の目標のすり合わせを経済財政諮問会議等で綿密に行っていたが、民主党では行われていない。首相と総裁が面会しても要望にとどまる。ブレーンの乏しいハトやカンでは白川総裁に会っても「総裁のお話をうかがう」だけだろう。

(抜粋続き)

(1) 政府は、中小企業者に対する金融の円滑化を図る必要があると認めるときは、日本銀行に対して、金融機関の有する中小企業者に対する事業資金の貸付けに係る債権の買取りを要請することができる。

「この法律(日本銀行法の一部を改正する法律)の施行の日から起算して二年を経過する日までの間、行うことができる」とあるように、現在の経済状況を鑑みた臨時措置なのである。

みんなの党は「中小企業憲章」をアジェンダに盛り込んだ。日本経済を下から支えるのは企業の8割を占める中小企業である。
国民新党の「モラトリアム法案」など何の役にも立たない。貸し渋り貸しはがしは金融再生プログラム以前から社会問題化していたし、銀行自体がコンサルティング能力を放棄してきたので、産業振興にはほとんど貢献してこなかった。

問題は、大企業の体力が弱ったことであおりを食う中小企業が、さらに円高でにっちもさっちもいかなくなっていることである。
自然淘汰とは違う構造要因から病弊する中小企業に対し、日銀の手を借りるのは奇策でもなければバラマキでもないと私は考える。

◇日々是語草◇
日銀への批判は不当か?ツイートまとめ

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2010年7月 4日 (日)

保守主義とは何か

真の保守」とは何か。
新潮45(5月号)で岡崎久彦氏はこう述べている。エキスはこの一文に集約されるだろう。

国家、民族と家庭を守るのが保守主義であるという定義には反対は無いであろう。

反対がないからこそ産経新聞は新閣僚が登壇・降壇する時に「国旗に礼をしたか」を一人一人チェックしたりする。国旗国歌法に反対した菅直人は左翼の親玉ということになる。

国を思う心の篤い岡崎氏は、真の保守を考える上で、自民党政権構想会議の第一回会議で示された冒頭部分に疑問を呈している。「近代社会では自由競争(創意工夫と自己責任)を重視する自由主義か、統制・計画を重視する共産・社会主義かに大別される」という構想メモを引き合いに、

真正保守主義に立脚した民主主義が、経済上の自由主義と結びつくと定義して良いかどうか、もう一つ自信が持てないのである。

その後、修正された自民党の新綱領は「我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない」となった。岡崎氏は、「これなら違和感を抱かせない」と納得している。

この曖昧さが現状の「真正保守」を標榜する保守層の感覚ではないか。
「保守」と「自由主義」があたかも対立理念としてすり込まれてしまっているのである。市場の原理は「統制すべきもの」、「人を堕落に導く悪しきもの」という固定観念がある。だからこそ日本は自由主義の国でありながら、戦前の統制経済を引きずってきたし、日本型社会主義への回帰が止まらない。

日本の古き良きものとは、「自由」ではなく、「お上がなんとかしてくれる社会主義」がイメージの中に残っている。民主党を政権与党に選んだ日本人にとって、命をかけて守るべきものは自由ではなく、いかに分配にありつくかになってしまった。麻生さんの弁ではないが、さもしさしか感じない。保守層にしても「経済政策」とは相も変わらず財政出動頼みである。「官から民へ」が指し示す「小さな政府」を打ち出しているのは、みんなの党のみになっている。

岡崎氏はエドマンド・バークの保守主義の研究を引用し、保守主義の本質を問うている。

バークによれば、保守主義とは、祖先から受け継いだ伝統的な知恵を尊重し、それを子孫に伝えていく哲学である。その裏には、人間は多くの間違いを犯す不完全な存在であり、人間の知力などというものは矮小で欠陥だらけのものであるとして、人間の浅知恵の過信を根源的に危険視する謙虚な人間観がある。

つまりキッシンジャーの補足によると「理論に基づく保守主義ではなく、歴史に基づく」と定義している。早い話が“先人の知恵に学ぶ”のが保守のあるべき姿ということだろう。先人が培ってきたものに対して謙虚であれ、と。

では問うてみたい。
日本人はどの時期の歴史に学ぶのか。戦後の佐藤栄作に連なる福田派が保守本流なのか、大平正芳氏が「保守本流」と自称したようにハト派保守が本流なのか。そんな保守論争は矮小にすぎる。

世に名君として知られる徳川吉宗は、実は増税と倹約によって町民の活性を奪う治世(経済政策)を行った。一方で上方では元禄文化が花開いたことを見ると、民の活力を生かす治世にこそ学ぶ点がある。けちけち財政至上主義の吉宗に対抗した尾張名古屋の徳川宗春は積極財政策を採って遊興にも大いに散財した。どちらの地域が発展したかは言うまでもない。河村名古屋市長は減税によって徳川宗春の志を継ぐと言っていた。自民・民主そしてマスコミと結託した「消費税増税へ右へならえ」の風潮にカツを入れてもらいたい。

政府は国民の生命と財産を守ることに本分がある。これこそが武士道の神髄ではなかろうか。武士道精神を経済政策にまで援用したいのが「真正保守」だが、民は民の本分があり、官が民の自由な競争を奪うことこそが左翼なのであるということを言っておきたい。官の統制が必要なのは、国家の重大な危機の時だけである。

国家観とは、自分を育んでくれる国を尊び、地域の発展に思いをいたし、家庭を守る姿そのものである。国を守ることは家庭を守ることと同じ。社会を恨むことは国家を恨むことと同じ。

国家とは他国の存在があって相対的に価値を持つ。もし世界が日本だけだったら国家を意識する必要もない。国という概念も生まれないだろう。ゆえに国家を日頃意識しないでいられるのは、他国のストレスを感じないで過ごせるということだから、とても幸せなこと。

政治に国家観を求める意味は、「国を守る」使命を意識させることである。それは権力側に憲法を遵守させる意味に等しい。国を守る戦略と知恵を持つ政府、そして民の自由を阻害することなく必要以上に搾取しない政府。私はこのあり方が本当の保守なのだと思う。

◇日々是語草◇
自民党はどっちつかずのお寒い保守。菅総理は・・話にならない

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