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2009年6月 4日 (木)

歴史認識にはマクロの視点が必要(2)

野口悠紀雄氏の「戦後経済史」を読むと、日本人が戦前戦後の「統制」から解き放たれていないことが実感できる。経済のみならず精神的にも中央集権体制依存から抜けきれていない。

今でこそようやく地方から霞ヶ関に「物を言える」知事が増えてきたが、知事会にしても官僚出身者が6割を占める中で、地方活性化のビジョンはいまだに国の統制下にある現状である。

「統制の呪縛」については「歴史認識にはマクロの視点が必要(1)」でだいたい結論を書いてしまったのだが、もう少し詳しく見てみたい。

「諸君!」や「正論」を愛読していた頃、私もおかげさまで自虐史観から脱することができた。ただしいろいろ史料を眺めてみると、どうも一面的な見方にすぎない、気をつけねば・・・と思ったのも事実である。

田母神さんは、あまりに素直に陰謀論を信じすぎているのではないか。底流に、「日本は悪くない」「アメリカのせい」「中国のせい」という被害者意識が横たわっている。佐藤優氏は「田母神氏は反米」と言っていた。「親米保守はあり得ない」との佐藤氏の言もある。私から見れば、タテマエ親米・ホンネ憎米といったところだろうか。結論として「日本は侵略などしていない」「自衛戦争をしたまで」というのが田母神さんの歴史認識になっている。田母神さんに拍手を送る保守層もまた同じ思考回路だと見受けられる。

現代史家の秦郁彦氏は、中西輝政氏や渡部昇一氏(田母神論文の選考員)から批判されている。(私はどの方達も尊敬している)
秦氏は、「アメリカの陰謀」「中国の陰謀」を根拠にして「騙したほうが悪い」という田母神氏の短絡性に疑問を投げているのだと思う。騙されたから善人か?そもそも本当に陰謀があったのか。(参照・Will2月号)

張作霖事件に関しては誰もが疑問符を付けていたが、田母神さんの言うようなコミンテルンの陰謀ではなくして、首謀者は関東軍の河本大作であることはほぼ確定している。

ルーズベルト政権にコミンテルンが入り込んで工作していたのは、私もそう思っている。複数の識者の研究を読む限り、かなり確度が高い。当時の親ソ・容共的な米国の姿勢が日本への対応を誤らせたと思う。ただし中西氏や田母神氏の説「日本は(コミンテルンの影響を受けた)ルーズベルト大統領のしかけたワナにはまり真珠湾攻撃をした」というのはきわめて怪しい。当時の(誰だったか?)日記から検証したものを読むと、軍・政府の緊迫したやりとりが描かれていて、関係者は不利な戦いであることを知りつつ、自ら決意していったのである。日本側は「宣戦布告も辞さず」の最後通牒を発した時、巧妙に「開戦」の意図を悟られないようにした。ルーズベルトはその時、よもや開戦通告とは思わず「日本は外交断絶するつもりか」と言ったという。騙されたのは米国のほうだ。開戦の電報が遅れたのは米国の陰謀云々の話しもあるが、すでにそれも覆されている。(いろいろな説が飛び交うので、日本国内でも“歴史認識”は史実として統一されていない)

天皇陛下は一貫して外交交渉による解決を望まれていた。田母神さんが「陛下も認めていた」と言った瞬間、天皇の御心を勝手に忖度して混乱を引き起こした「草もうの志士」を思い出して、私は軽くキレてしまったのだった。

当時から今に至るまで日本は反共産主義ではあるが、軍部の勇み足について「日本の軍部や右翼は国体の衣をつけた共産主義者」(近衛上奏文)
を持ち出すのはいかがなものか。秦氏は「これは近衛の被害妄想」としている。

保守論客の間でもこのようにさまざまな認識の違いがある。

自分の「こうであってほしい」説に合致する説を、人は無意識に取捨選択して「歴史認識を構築」するのである。

国家総動員体制は、皇道派によって惨殺された永田鉄山(陸軍省軍務局長)が対ソ戦略として構想していたものである。永田鉄山は、一貫して軍部主導の政治体制確立を求めていた。東条英機は、永田の仲間。中堅幕僚の仲間内で永田はリーダー格だった。

参照:「浜口雄幸と永田鉄山」川田稔氏

田中義一政友会内閣では、張作霖を傀儡にして満蒙権益を得ようとしていたのだが、関東軍首脳は張作霖の排除を狙っていた。田中首相によって武力行使を牽制された軍部は、河本を使って張作霖の暗殺を実行した。政府と軍の対立が進行していた経緯を見ると、この事件をコミンテルンの陰謀にするにはかなり無理がある。

張作霖事件によって田中義一は失脚し、その後民政党の濱口雄幸内閣が誕生する。昭和恐慌に緊縮財政をして日本経済をボロボロにした張本人である。一方で外交は宥和政策をとり、対中国政策は、国民政府による中国統一を容認する姿勢だった。しかし、永田らは満州蒙古領有論であって、資源獲得のために武力侵攻も厭わなかった。対欧米外交も宥和政策をとっていた濱口は、国際連盟を「戦争抑止装置」と考えていたが、元朝鮮総督府の斎藤内閣になってから、満州国を承認しない連盟に対し、松岡洋右らは席を蹴って退場した。日本人は諸手を挙げて喝采したらしいが、昭和天皇は非常にお心を痛めておられた。

内閣の方針を無視して武力制圧に向かった関東軍の侵攻は、中国の日貨排斥運動を起こし、中国国内で反日感情が高まっていた。日米開戦は、元はと言えば関東軍の満蒙作戦が起因している。国際社会の権益のぶつかりあいが顕在化したのである。幣原外交に見られるように、日本政府は融和路線をとっていたが、軍部は英米に対しても強硬姿勢を崩さず、それを許さなかったのである。

そういう経緯を知りながら、田母神さんが「第二次世界大戦は欧米列強の植民地政策に対するアジアの自衛戦争だった」と結論づけることには違和感を覚えざるを得ない。後付の正当性を主張したところで、外交努力を放棄し、負けることがわかっている戦争に突入したことの責任は免れ得ないのである。

敵はいつも足元に在り。背広組(内局)が制服組を統制するかのような、誤った“文民統制”に忸怩たる思いを抱いてきた田母神さんなら、「欧米の植民地政策と闘った日本」と正当化するより、本意のずれた“文官統制”こそ追及してほしい。――そもそも日本側はシビリアンコントロールの意味がよくわからなくて、通訳は文官統制と訳したらしい。内局が制服をコントロールすると都合良く解釈されてきた経緯がある。あの守屋事務次官の「権勢を振るう」と言ってもいいような影響力を見ても、政治が官を主導する本来の“文民統制”にはほど遠い実態があるということだ。

歴史の宿題は、まだ解決されずに残ったままである。

連盟脱退後、関東軍が河北省内部に侵攻した時、昭和天皇は「関東軍は河北からまだ撤退しないのか」と問うたという。真崎参謀次長は直ちに関東軍に撤退を命じたが、関東軍はふたたび長城を越えて侵攻した・・・。

昭和天皇が松岡洋右の靖国神社合祀に嫌悪感を持たれたのは無理からぬことだと思う。冨田メモの内容は、田母神さんのような(一面的な)歴史認識を持つ保守層には受け入れがたいとは思うけれど。

満州領有論・武力制圧派の永田が主導する軍部と政府の対立が深まり、満州事変と5・15事件を境に昭和陸軍の時代へと突き進んでいく・・・。

永田が軍務局長に出世した頃、「国防の本義と其強化の提唱」という陸軍省パンフレットが発行された。統制派メンバーが作成したものであり、永田の主張どおりの内容であった。具体的には①軍備の充実、②経済統制の実施、③資源の確保であり、いつ戦争が起こってもいいように、平時においても国家総動員的な国家統制を求めている。

斎藤内閣当時、真崎参謀次長は、日中両軍が衝突することに英米の「疑惑」や「嫌悪」を引き起こし、満州問題の解決を困難にすると日記に書いている。関東軍に対し、将来のために「浅慮の謀略を戒め」ているのである。

その真崎は、陸軍省パンフレットを「国家社会主義思想」だと忌避していたという。当時の無産政党であった社会大衆党書記長は、「資本主義的機構を変革して社会国家的ならしめようと」するものであり、日本の国情においては「資本主義妥当の社会改革において、軍隊と無産階級の合理的結合を必然ならしめている」と“評価”している。

このパンフレットこそ近い将来の1940年体制に続く理念となっている。社会大衆党が大絶賛する国家社会主義思想は、戦時体制の国家を規定したものなのであって、それ以前の日本の政治や経済の有り様とはまったく違う理念なのである。

第二次世界大戦が終わっても、国に奉仕を義務づけられた統制思想は残った。戦後復興には国の統制が必要であり、国が主導してインフラ整備も行った。食糧管理も当然国が統制しなければならなかった。戦時体制が戦後復興をそのまま助けたのであった。日本人が苦難から乗り越えた一体感は、そのまま「日本人らしさ」として国家社会主義思想を受け入れる土台となっているのだと思う。

GHQによって財閥解体され、上流階級もなくなり、平等な社会が実現した。官僚体制は看板を付け替えてそのまま残され、国家統制に共鳴する革新官僚の土壌となり、戦後復興の日本を力強く牽引してきた。一方で、日本が成熟するに従って日本型社会主義は官の肥大化をもたらした。中央が既得権を握り、行政執行力をもって「民を搾取」する構造が政官業癒着構造として残ってしまったのである。政友会の田中義一が民政党の濱口に批判されたごとく、自民党議員は“族”に成り下がってしまった。

そのような体質を変えてくれると期待されたのが、「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉純一郎なのであった。

古い自民党が息を吹き返しつつある一方で、明治維新以来の大改革の必要性を訴える改革派が現れてきたのは、歴史の必然のような気がする。そこから「政治主導」「官から民へ」「省庁設置法案見直し」「霞ヶ関改革」という課題が出てくるわけである。

ふぅ~、経済史から濱口内閣の経済政策、民主党の景気対策に寄り道して歴史認識、田母神論文まで、巡り巡ってようやく「構造改革の必要性」に帰結した。(^_^;  一時はどうなることかと…(笑)

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